「その他の工業」に分類上入るけれども、われわれの日常生活に欠くべからざる「鉛筆」のことにもふれておかなければならない。
日本の国内では地租改正による金納化が実施された明治九年に、半官半民の貿易商社ともいえる「日本起立商工会社」の技師長であった真崎仁六は、アメリカ太平洋岸のフィラデルフィアで開催された万国博覧会を見学して一驚した。翌年帰国すると、東京の上野公園で第一回内国勧業博覧会が、明治政府の肝いりで開かれたが、アメリカの万国博覧会と比べたら、ただ失望するのみ、比較にならなかったという。さらにその翌年明治十一年には、パリでの万国博覧会に出品かたがた見学をしたなかに、真崎仁六の一生を運命づけた各種の鉛筆が展示されていたのである(『鉛筆とともに八十年』)。
ところで、すでに、明治四年、当時の開成所の教師として、数学・自然科学などを講じていたG=ワグネルは、翌五年大学東校に転じ、物理・化学を講じることになり、さらに、翌六年五月一日から六ヵ月間、オーストリアの首都ウイーンで開催された万国博覧会に、外人顧問として渡欧した。しかも、かれと同行した伝習職工たちのなかには、「活字・同紙型・硝子・鉛筆ノ製法・測量器械」などの技術修得につとめた藤山種広や井口直樹らがおり、ともに「鉛筆製造」に努力したといわれている。彼らは、ドイツのヒットワイス鉛筆製造所の器械・技術によって、明治十年の内国博覧会に出品したのが最初だったようである。なお、ちなみに藤山種広は、のち紙幣寮活版局長をへて、品川硝子製造所に入り、本邦最初の舷燈用紅硝子と製造したといわれている(土屋喬雄『G・ワグネル 維新産業建設論集成』、『澳国博覧会参同紀要』)。
このように、真崎仁六の鉛筆製造の着手は藤山・井口らよりはおそかったし、また両者の間には技術的交流がなかったかと思われる。むしろ、パリから帰国した真崎はただちに京橋区山下町(現中央区銀座五丁目)の自宅を作業場に研究を始めた。しかし、かれが持ち帰った鉛筆の知識はといえば、わずかに「鉛筆の芯は黒鉛と粘土の混合物らしい」ということだけであったという。したがって、良質の粘土と黒鉛の入手に血眼になった。やっとのこと、明治十六年ごろ、鹿児島県加世田の黒鉛、栃木県那須郡烏山の粘土が、鉛筆の芯として最適であることを、つきとめたといわれている。だが、問題はまだ残っていた。「鉛筆の軸」である。これとても、可能な限りの木材試験をした結果、北海道産のアララギが最適であるとの結論に達したという。さらにこの鉛筆製造のための機械化が課題となった。かくして、鉛筆製造の成算がついたのを機に、明治二十年、日本起立商工会社を辞めて、「真崎鉛筆製造所」を東京市四谷区内藤新宿一番地(現新宿区内藤町一番地)に設立した。新宿御苑のとなりであった。資本金一五〇円、玉川上水にかけた水車が動力源であった。その販売方法にも大変苦労した。需要も少ない上に、ドイツからの輸入品が絶大な力をもっていて明治中期には、日本橋の問屋を歩いても、どこでもひきうけてくれなかった。やっとのこと明治三十四年に、逓信省御用品、具体的にいえば、全国の郵便局むけに、一手納入ができるようになった。そのころは「はさみ鉛筆」で、「木にさか目が多くて削りにくかった」のを改良に改良を重ね、血の出るような苦心を重ねて、外国製に匹敵する、しかも輸入鉛筆より三割がた安い、局用一号(2B)・局用二号(HB)・局用三号(2H)の三種類の真崎鉛筆をつくりあげたのである。しかも、現在「三菱鉛筆」のトレード=マークになっている「三菱」は真崎家の家紋(三鱗)を、三個のダイヤに考案したものであったという。ふつう「三菱財閥」の商標と混同され勝ちであるが、岩崎より十年早く、明治三十六年に商標登録をしたというのも面白い。
さて、販売ルートの確立していなかった真崎鉛筆は、日露戦争前に大阪の福井商店と全国を二分する実力のあった東京日本橋の輸入雑貨商市川商店と明治三十七年に販売提携することができ、こえて明治四十一年には、この市川商店の資金援助で、資本金一〇万円の「真崎市川鉛筆株式会社」を設立、製品の一手販売権を市川商店に委ねることとしたのである。このころの「東京案内」によれば、真崎鉛筆製造所の規模は「工員男一五名、女六名、徒弟男三名」とある。このようにして真崎仁六による鉛筆製造業も軌道にのったが、明治四十年には東京博覧会で二等賞、同四十三年のロンドンにおける日英大博覧会では一等賞、大正三年の大正天皇御即位記念博覧会には一等賞をうけている。