品川銀行・大井銀行の創設

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いままで、述べてきたように、目黒川沿岸に蝟集した諸工業の展開は、本来ならば当然に資金需要をひきおこす筈であり、逆に金融機関の側からいえば、仮りに、同じ当区域内に限る必要はないけれども、それへの資金融通がなされるべきなのである。

 しかし、極めて残念ながら、それへの手掛りや実態解明の糸口はつかめていない。たとえば、日清戦争後の明治二十九年四月に久我通知東京府知事宛て提出された「品川銀行設立趣意副申書」によってみても、「殊ニ当地ハ水陸共ニ鉄路汽船ヲ通シ、運輸交通ノ便頗ル宜シキヲ以テ、各工業会社ノ如キ、逐日其増設ヲ見ルニ至リ、……独リ其要素タリ機関タル金融活動ノ便ヲ欠キ」と指摘されている。かくて、資本金一万円、漆昌巌(品川馬車専務取締役)をはじめ、宏仏海(明教保険株式会社長)、杉浦作次郎(品川電燈専務取締役)・高木正年(八丈嶋物産会社長)らをはじめとする地元の名望家層によって、同年六月六日に品川銀行が創設されてゆくのである。品川銀行の本店所在地は、品川区北品川宿本宿六十番地で、関東大震災後大正十四年六月には森村銀行に合併、こえて昭和四年五月には森村銀行が三菱銀行に買収されて、同行品川支店として存続している(『三菱銀行史』資四四三号)。

 大井銀行は、明治三十三年八月十日に大井町四七三番地に本店を創立した。発起人、資本金額ともに明かでなく、日露戦争後の明治四十一年五月に不況の襲来からか取付騒ぎにあったことがある。関東大震災の大正十三年十二月十五日に、麹町銀行に合併され、こえて昭和二年十二月、いわゆる「金融恐慌」直後に麹町銀行は川崎第百銀行に吸収されて、三菱銀行大井支店として現在に至っている(『三菱銀行史』、『銀行通信録』、亀山甚『銀行と共に六十年』)。