このころの品川区の区域に住んでいた人びとはどんな生活をしていたか、古老の話をもとにして眺めてみるとしよう。
農村部では、文明開化の波はそれほど急激に浸透してはおらず、江戸期の様式をそのまま継承した形での生活が営まれていた。
まず住いは、前時代の様式を踏襲した萱葺の建物が主体で、四つの室を田の字形に組合わせた間取りの家がほとんどであった。明治初年に分家した先々代によって新築されたという中延四丁目の宮野熊太郎氏の住宅は、のちに一部改造されてはいるが、当時の遺構を比較的よく伝えている。萱葺寄棟造りで、この家も四室で田の字形に室が配置され、室はザシキ・オク・ヘヤ・ダイドコロに別れ、ザシキは居室、オクは冠婚葬祭の集まりのさいに主として使われ、日常は家族の寝室として使用していた。ヘヤは寝室専用、ダイドコロは主として食事に使われた。この四室のほかに広い土間がある。現在この土間は居室などに改造されている。農家はどの家にもこの土間があって、野菜のアカッパ(赤っ葉)をとったり、葱の皮むきをしたり、野菜を束ねたり、いわば屋内作業を行なう場であった。土間の一隅には流しとヘッツィ(竈)があり、流しのそばに大きな水甕(がめ)が置かれ、ここに屋外のツルベ井戸から汲上げた水が貯められていた。ヘッツイは明治時代に入ると房州石(千葉県産)の流入が盛んになり、土で築いたものから、石を使ったものに変わっていった。炊飯や調理はこのヘッツイで行なわれた。付属建物として家財道具や穀物を保管するクラと、農具などを格納するモノオキが建てられていた。クラは上層の農家に限られており、土蔵造りに代わって、房州石を積上げた石蔵(いしぐら)造りが建てられるようになった。
室の照明はまだランプが主体であったが、戸越では明治の後期になると、一部の農家に電気を引き、電灯を使う家がでてきた。しかしこのころは一軒で使う電灯はせいぜい一灯であった。また一部の家にはガスを引き、ガス灯を使う家もあった。桐ケ谷では明治二十一年(一八八八)ごろ電気を引こうという話が住民の間にもち上がったが、架設費が高額のため取りやめになり、結局電灯が使われるようになったのは昭和のはじめである。それまではランプが使われたが、明治に入っても行灯(あんどん)を使う家があったという。中延では電気が引かれたのは大正五―六年(一九一六―七)ごろといわれている。
このころの農家の人たちはどんな食事をしていたであろうか、食生活の面を見てみると、主食はヒキワリ飯と呼ばれるもので、乾した大麦をひき臼にかけて細かく砕いたものに、米を混ぜて炊いたものを日常食べていた。麦と米の混合率は家によって異なるが、ヒキワリ(砕いた大麦)七分、米三分、あるいはヒキワリ六分、米四分が多かったようである。白米だけの飯は庚申待、日待あるいは田上り正月などの、村民が集まって会食するときや、冠婚葬祭での人を招待するときだけであった。家によっては蕎麦(そば)を栽培し、手打ち蕎麦をつくって食べる家もあった。
副食は野菜の煮付けが主で、自家の畑でとれる季節季節の野菜の煮たものを主として食べていた。戸越・小山・中延などでは、自家で栽培した筍(たけのこ)を煮て食べた。魚は塩鮭や鰺(あじ)の干物などが主で、生魚はぜいたく品として晴の日以外は余り食べなかった。生魚といえば大森から、ボテフリ(魚の行商人、天秤を担いでくるのでこの名がある)が鰯などを飯台に入れ、天秤(てんびん)で担いで売りに来たので、これを買って食べるのがせいぜいであった。
漬物は沢庵がどの家でも漬けられ、自家の食用に供された。そのため秋になると各農家では干大根を多くつくった。沢庵以外には菜漬がつくられた。
味噌汁は一般に朝食だけで、汁の実にはその時季の野菜をつかっていた。
味噌や醤油はそれぞれの家で造ったが、味噌を造るときは大きな釜で大量の大豆を煮て、大樽に仕込みをしたので、大きな騒ぎであった。
寒(かん)に入ると一軒で何俵もの大量の餅を搗(つ)いた。家によっては白い餅だけでなく黍餅(きびもち)やもろこし餅も搗いた。これは寒餅(かんもち)と呼ばれ、水に漬けられて長期間保存され、年間通じて食間や畑での農作業のさい食用に供されていた。
食事は覆物(はきもの)をつけたまま板の間や木製の四つ脚の台に腰をかけて済ませる場合が多かった。
明治に入って肉食が行なわれ、都市部ではこれが次第に普及していったが、農村部では四つ足の肉を食べることにはかなり拘泥があって、農家では肉は絶対に食べないという家が多く、家族で肉を食べる者があると、屋外で調理をした。
牛乳に明治の末ごろ、北品川の亀の甲松の付近(現在の北品川三丁目、区立産業文化センター付近)に太田という牛乳店があって、戸越辺の農家でも医師から牛乳を飲むことを指示されると、この店から小さいブリキの缶に入れてコルクの栓をした牛乳を、一本二銭で買ってきて病人に飲用させたといわれている。
つぎに衣服の面を見てみると、農耕を行なうときに着る作業衣は、男子は下体には股引(ももひき)をはき、上体は腹掛をかけ、その上にはんてんを着た。いずれも生地は木綿で、紺の盲縞(めくらじま)であった。はんてんは前を合わせ、腰を紐で縛った。頭には何もかぶらない人と、ホッカブリ(頬被り)をする人があったが、夏の暑い時には菅笠などをかぶった。また鳥打帽をかぶる人もあった。女子は木綿の絣(かすり)の着物を着たが、袖の細い、丈の短かいテッコジュバンを着る者もあった。
外出の場合は、男子は木綿縞あるいは木綿の盲縞の着物を着て三尺をしめ、ふだんは草覆をはいたが、雨天のときは駒下駄をはいた。近くに用をたしにゆくときは腹掛・股引のままで出かけたが、冬はその上に丈の長い長ばんてんを着た。冬の外出のさいはインバネスも使われた。女子は木綿の絣あるいは縞の着物、そして銘仙の着物などを着て半幅帯をしめた。冬は銘仙の羽織などをその上に着た。夏は浴衣を着た。
桐ケ谷から戸越・中延・小山にかけての台地と、大井の台地一帯は野菜畑で、東京市民の食膳に上る蔬菜の供給源となっていた。この一帯では小松菜・ほうれん草・大根・人参・牛蒡・茄子・胡瓜・冬瓜・南瓜・西瓜・枝豆・しょうがなど各種の野菜が生産されていた。このころ、このあたりの家はほとんど農家で、農家の人たちの生活は麦や野菜の栽培、目黒川や立会川の周辺にあった水田の耕作、そして戸越・中延・小山にかけては筍の栽培が主であった。春から夏にかけてとれる小松菜・ほうれん草・大根・人参・牛蒡などは十月の初めに種蒔きが行なわれ、小松菜・ほうれん草は四月から五月ごろ、大根は六月ごろからとりはじめた。大根は暮にもとれたが、良質のものは翌年にならないととれなかった。茄子や胡瓜は十月ごろ床(とこ)をつくって苗を育て、翌年三月ごろ、苗が四―五寸(一二~一五センチメートル)ぐらいにのびたところで、畑に植えかえる作業を行なった。冬瓜・南瓜・西瓜は三月ごろ種蒔きが行なわれ、夏結実した。野菜の栽培にあたっての作業には、種蒔き、収穫の作業のほかに、それが一定の大きさに生育したときに肥料を施す作業、冬になっての霜除けのための竹の枝を斜めに立てる作業があった。
大麦や小麦も栽培され、大麦はヒキワリにされて主食に供され、小麦は石臼で挽(ひ)かれて小麦粉にされた。麦の栽培には種蒔き・施肥・麦刈りなどの作業が行なわれ、収穫後クルリ棒をつかって麦打ちを行ない、食用に供するまでの加工を行なった。麦打ちは大勢の人手を要したので、親戚とか近隣組織である組合の者同士が手伝い合った。
米作は陸稲(おかぼ)の栽培も行なわれたが、目黒川や立会川の両岸とか、現在の戸越銀座通りのあたりの低地帯に水田があって、水稲の栽培が行なわれた。本区の区域で行なわれた水田耕作は、苗代で育てた苗を田植えによって植えかえるいわゆるウエ田でなく、籾(もみ)を田に直(ぢか)蒔きをして、一定の長さに生育したのち、過密に生えたところは、その一部を摘みとって調節をするツミ田を行なっていた。籾を田に蒔くとき、籾を雀にくわれないように、そして一定間隔に散布できるように藁灰に混ぜて蒔いた。そのため田の草とりは四回ぐらい行なった。ツミ田が終わると田上(たあが)り正月を行なった。田上(たあが)り正月はツミ田正月とも呼ばれ、いっぱんに五月二十八日に行なわれた。この日は各字ごとに村民が持回りできめられた当番の家に集まって会食をした。
農家のしごとは夜が明けると同時に始められる。昼間の作業は主として屋外の農耕作業で、日が暮れると同時に終了させる。夜間の作業つまりヨナベには、とった野菜の手入れと、出荷のための野菜を束ねる作業が主として行なわれた。
とれた野菜は藁で束ねられて、何軒かの農家で共同でつくった「洗い場」で洗われて出荷された。野菜の出荷先は区内の農家はほとんど南品川の青物横町の問屋で、このころ青物横町には、東京府から青物市場として認可され、品川青物市場組合に加入していた問屋が三軒あった。
野菜は大八車(だいはちぐるま)か、大八車より少し小さい荷車(にぐるま)に積んで、手で引いて運んだが、二輪の馬車も使用された。品川に野菜を出荷した帰りには、品川宿で下肥を汲んできた。下肥の汲み取りは、農家と町家が互いに協定をしていて、各農家は特定の町家と下肥について協約し、農家はその代償として暮に肥代(こえだい)と称して一定額の金を支払った。区内の農家では品川宿だけでなく、芝の二本榎・露月町・宇田川町・佐久間町(いずれも港区内)あたりまでも汲みに行く家があったが、これらの家に肥代を持ってゆくとき、藁のつとに入れた里芋などの野菜を添えて持参するのが慣例であった。
運搬は大八車と荷車がもっぱら使われたが、馬の飼育が行なわれて馬車も多く使われた。
自転車がわが国に入ったのは明治十四年(一八八一)といわれており、そのころは前輪が大きく後輪が小さいもので、はじめは遊戯用として使われ、だんだんに実用化されたもので、明治三十年代に入って普及し、明治四十年代には農村でも広く使われるようになった。区内の農村でも、明治後期には多くの農家で使われ、近郷への用事を足す場合に便利な道具とされ、また軽量物の運搬にも使われた。