品川区内でも品川宿は江戸時代から市街地として賑わっていた。ここには商家が多数あって、たいていの商家には奉公人が雇われていた。奉公人の出身地は、明治後期には関東・東北地方だけでなく、さらに広範囲の各県に及んでいた。奉公人は追廻(おいまわ)し・小僧(こぞう)・中僧(ちゅうぞう)などに分れ、小学校を卒業してすぐに奉公に入る者が多かった。就業時間は普通の商家は朝七時ごろに店を開けてから、店を閉める午後十時ごろまでで、夕食を食べるのが午後六時か七時ごろであった。給料は住込みのため、無給か、出ても月五銭か十銭の小遣い程度で、徴兵検査が済むと一人前として扱われるようになり、はじめて正式の給料が出た。休日はふつう盆と正月だけで、盆は十五日と十六日が藪入りで休みが出た。盆と正月には仕着せと小遣いが渡された。
品川宿の商家の子供たちも、たとえその店を相続する者であっても、他人の飯を食わせないと立派な商人になれないといって、丁稚(でっち)奉公に出された。子供が大勢いれば口ベラシのために奉公に出す家もあった。奉公先は東京市内の店が多かったが、遠いところでは大阪まで奉公に出す場合もあった。女子は市内のお邸(やしき)(上流家庭)に女中奉公させた。
商家に勤める者の服装は、米問屋ではシャツを着て木綿の股引をはき、シャツの上に襟に店の名を、背中に店のしるしを染めぬいたはんてんを着て、冷飯草覆(ひやめしぞうり)をはいた。麻裏草覆はなかなかはけなかった。魚問屋に勤める若い衆は、胸あきシャツを着て半股引をはき、向う鉢巻に足袋裸足(たびはだし)であった。
宿内に居住する職人の服装は腹掛・股引に印ばんてんを着て、麻裏草履をはいていた。麻裏草履はのちにゴム草履にかわった。
品川宿に住む人たちの食事は、主食は白米の飯であったが、明治の末ごろには不景気になったため、大麦のヒキワリを混じたヒキワリ飯や、南京米の飯を食べる家もでてきた。副食は農家と余り変わりがなく、野菜の煮付けが主体であったが、近くに住む漁師から鰯・コチ・セイゴ・ボラなどの近海魚を買って塩焼きにしたり、醤油で煮て食べた。またカニやシャコもよく獲れたので、これを買ってゆでて食べた。