子供の出産は、どんな習俗のもとに行なわれたであろうか。このころはお産は明るい室でするものではないといわれ、うす暗い室で出産をした。産室には藁(わら)を敷いて、その上に布団を敷き、その布団は二十一日間敷いたままで、産婦はそこで寝かされていた。この間、産婦は竈や井戸に手を触れることを禁じられる。出産三日目には、ミツメノボタモチと呼ばれるぼた餅をつくり産婆に振舞う。七日目の「お七夜」には赤飯を炊き、仲人や産婆を招いて子の成育を祝い、この日命名をする。二十一日目は「枕直し」といってはじめて床を上げ、産婦は体を清拭して床を離れた。男児は三十日目、女児は三十三日目に鎮守の社に「お宮参り」に連れてゆき、健康で成長することを祈願した。赤児は一般に祖母か親戚の者に抱かれていった。
子供が成長して結婚適齢期を迎えると、仲に立つ者が、村内あるいは近郷の適当な者を世話をして見合いをさせた。このごろは見合い結婚がほとんどで、その世話をするにあたっては、双方の家格が尊重され、その比較のために、一定額の国税を納付する者に付与される選挙権の有無が目安とされた。見合には祭礼の場も使われた。縁談がまとまると吉日を選び、嫁の場合も、婿を貰う場合も、貰う方の両親や親族が、仲人といっしょに相手方を訪問し、結納(ゆいのう)金を納め、角樽(つのだる)に詰めた酒を贈る。これを「樽(たる)入れ」と呼んでいた。婚礼は貰う方の家で行なわれ、嫁を貰う場合、昼間、婿が嫁方に花嫁を迎えにゆき、夕方花嫁にその両親・近親者が付添って「嫁入り」が行なわれた。嫁入りの荷物は荷車にのせて運んだ。花嫁が婿方に着くと、そこで三三九度の盃を交わし、親族固めの盃が終わると、両家の親族や縁者が集まっての酒宴に入った。婚礼の翌日、町内あるいは村落のうちの各家を、仲人が付いて「顔見せ」に廻り、半紙一帖に水引きをかけて配った。三日目には「里帰り」と呼び、花嫁は夫とともに実家に挨拶に行った。婚礼の料理はほとんどが自家製で、煮〆・精進揚などが出され、尾頭付と口取りは魚屋・仕出し屋などから取寄せた。婚礼の衣裳は、花婿は紋付羽織袴、花嫁は定紋の入った小紋か留袖であった。仲人や両親・親族は男は紋服、女はふつう小紋の紋付で、裾模様は着なかった。
葬儀は近隣の人たちが主体となって進められた。通夜には、親族や近所の人たちが集まって死者を弔い、湯灌をして納棺をしたが、このころの庶民は座棺を使用した。農村部では村内の念仏講や題目講の講員が集まって、供養のための念仏あるいは題目を唱和した。この晩集まった親族などには夕食を出したが、その調理や配膳をするのも近所の者であった。葬式の当日は町内の者、農村部では村中の者が、おのおの香典を持って弔問した。弔問者には全員に出棺前に食事を出した。当日は檀那寺の僧の読経が済むと出棺となる。墓地までの葬列は嗣子が位牌を持ち、膳にのせた飯を妻か子が持ち、そのあとに棺をのせた輿(こし)がつづき、輿は近親者が担いだ。この行列には、近所の者が持つ高張提灯や、紙の旗などが前に付いた。このころはまだ土葬で、墓地の穴掘りはいっぱんに近所の者か講中の者の役割りとされていた。
下蛇窪(豊町四丁目)の金子家には明治三十六年(一九〇三)七月に行なわれた同家の葬儀の香典帳が二冊伝えられている。これによると香典の額は最高五円、ついで二円、一円五十銭、一円とつづき、五十銭から十銭までが最も多く、念仏講は一円五十銭を出している。他の一冊は表紙に
明治卅六年
御村方香奠覚帳
七月八日
以上のように記されていて、下蛇窪の全戸の人たちの出した村香典の内訳が記載されている。末尾に
〆村内五拾五名
此金弐銭掛
〆金壱円拾銭
と記され、下蛇窪の全戸五拾五軒が一軒当り二銭づつを出して一円十銭を集め、金子家の仏前に納めていることがわかる。