村落組織

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江戸時代の村落制度は明治時代に入って、新しい地方制度の一環として再編成され、江戸時代の村は町村制の制定によって、新しい町村の下部機構となった。もっとも品川区の場合には、旧大井村のように猟師町であった御林町や、半農半漁集落である浜川町をも包括した大村であったため、一村で新しい一村に編成された例外例もあった。

 大方の旧村は、新町村の構成単位である大字と呼称が変わったが、その大字や、さらにその下部機構であるヤトと呼ばれる村落組織のなかにあっては、旧来の慣行や取極めは、村民が村落のなかで協同生活を営む上に不可欠のものとして、そのまま継承され実施されていたのである。

 村落つまりヤトの内部機構は、中延の場合、東(ひがし)、中通り、上(かみ)と三つのヤトがあって、それぞれヤト惣代が選ばれてヤトのまとめをしていた。五人組の制度もそのまま継承され、ヤトのなかにさらに五―六戸で一つの組がつくられ、村落組織の末端機構となっていた。組は組合とも呼ばれ、組惣代・組長・組合長などと呼ばれるまとめ役が、各戸交替で選任されていた。この人たちは一年交替で、任期中各種の連絡や鎮守の経費・入営の祝金・村香典などの徴集を行なった。組は合力互助組織でもあり、一戸の労働力では処理できない麦ブチ(麦打ち)・餅搗き・屋根の葺替え・婚礼・葬儀の雑用などを協同の力で処理してきた。

 どのヤトの場合でも、婚礼や葬儀にはヤト全戸が参列する慣例になっていて、葬儀のさいは、ヤト全員同額で出す村香典が徴集され、葬儀費用の一部負担をした。

 居木橋(大崎一-五丁目)の場合は、この旧村全体で年番五人が選任され、各種の連絡・各種の負担金の徴集・鎮守の祭礼や各種行事の準備、後始末などに当たった。この年番の交替は、毎年一月十三日に村内唯一の寺、観音寺に村民全員が集まり、旧名主松原氏を中心に交替の式を行なった。この旧村では、このころはまだ旧名主が村の中心的役割りを果たし、その下に年番があって、村落組織の運営に当たっていたわけである。

 鎮守の社は村落結合の中心となっていた。したがってその管理と祭祀は村落組織のなかで重要なしごととされていた。

 神社の管理は神仏分離によって、別当寺から国あるいは地方自治体に移された訳であるが、実質的には各村落がその維持と管理にあたっており、とくに農村部では専任の神職が配置されている神社は少なかったので、各ヤトから選出された宮惣代の合議によって運営・管理されていた。そして神社運営の中心となっていたのは、前時代から引続き村落組織の中心となっていた旧名主層、あるいはそれに匹敵する有力者層で、中延では大鏑木(おおかぶらぎ)と呼ばれる旧名主鏑木家、戸越では山路家、居木橋では旧名主松原家などで、中延八幡の祭礼に行なわれる歩射(びしゃ)の神事の準備は、鏑木家に宮惣代らが集まって行なっていたし、居木橋の鎮守居木神社の祭礼執行の協議は、松原家に集まって行なう慣例となっていた。

 祭礼は氏子の村落全体の大きな行事として執行され、各ヤトから出た宮惣代と、若い衆がその主力となって進められた。祭礼のさい、神社の境内で行なわれる村角力(大井鹿島神社)、里神楽(戸越八幡神社)には、各ヤトの村民専用の桟敷がつくられたが、これをつくるのは各ヤトからの労力提供であって、戸越八幡神社の場合は宮本・中通り・後地の三つのヤトが毎年交替で、三ヤト分の桟敷をつくった。このように祭礼は村落組織の結集が強く打出された形で執行されたのである。

 村落の中にあっては、これを構成する各家が平等に労働力を供出して共同作業を行なうものがいくつかあった。その一つに道普請(みちぶしん)がある。村の中を通る道路を村民が協力して修理を行なうもので、村落組織としては重要な事業であって、江戸期からこの時期に入っても継続して行なわれていた。中延ではこのころ一戸から一名づつ人手を出させて道普請を行なっていた。このころの道路は舗装でないので砂利を敷いて水はけをよくし、泥濘になるのを防いだ。これに使用する砂利は購入した。明治期に入ると、この事業には村役場から補助金が交付され、道路に敷く砂利の購入費に充てられていた。

 下蛇窪(豊町四丁目)金子一郎所蔵の明治四十三年(一九一〇)の「村内(下蛇窪)道路修繕費用控帳」には、下蛇窪地内の道普請に要した費用について記載されている。この年十二月に行なった蛇窪道路下蛇窪分四〇〇間(約七三〇メートル)、森道下蛇窪分二〇〇間(約三六〇メートル)の修理を行なった。平塚村役場から一六九円〇七銭の工事補助が出て、これで砂利を購入し、村民の労力によって修理を完了させたことが記載され、不足金四二円二一銭五厘を生じ、村内有志の者が二名でこれを立替えたことが記されている。

 居木橋では村内の崖から山砂利が採取できたので各家の者が荷車を持参して道普請に集まり、これを採取して道路に敷いた。この日は各家の女手によって炊出しが行なわれ、午後三時になると各家から道普請に出た者に振舞われたといわれている。