日本体操学校

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明治三十七年九月、当時の大井村北浜川の海岸沿いに日本体育会ならびに体操学校が東京市内麹町区飯田町牛ケ淵(現在の九段、千代田区役所の場所)から移転して来る。その地は現在の京浜急行立会川駅北約一〇〇メートルの京浜国道沿いのところにあたる。この移転の理由は、旧所在地が都心部に近い上、狭隘となり、広くて地価の安い土地を求めてのものであった。すなわち、両敷地とも借地であったが、牛ケ淵が地代坪一〇銭に対し、大井は坪一銭三厘という安さであり、そこに約四、七〇〇坪余りの土地を求めて新校舎を建設したのであった。主な施設は校舎二階建二二四坪、屋内体操場六〇坪、武道場四五坪などで、それが田圃(たんぼ)に囲まれた海岸沿いの地に設けられたのであった。

 また、この移転とともに体操学校の付属学校として荏原中学校が三十八年四月に設立されている。この中学校は荏原郡下ではじめてできた中学校であって、とくに大井村民も中学設立の要望が強く、体育会に設立の申し入れが荏原郡長を通して行なわれたことも創設の原因となっている。しかし、体操学校と中学校は同一の校舎を併用したものであった。


第42図 荏原の日本体操学校の新校舎・左が雨天体操場
(『体操』132号)


第43図 日本体操学校施設配置図(開校時)と(昭和5年頃)

 体操学校がここに移行するとともに、以前は隅田川に設けられていた水泳場が、学校前の海岸に設けられることとなり、三十八年から大正三年まで毎夏開設され、多数の市内や周辺の小中学生が参加して水泳鍛錬が行なわれるようになった(大正四年以降個人経営となったが、大正八年に再開される。)。

 以降、大井の海岸は若人の勉学や運動の姿でにぎわうようになるが、とくに体操学校生徒は一年次、全寮制がとられ、校内の寄宿舎で起居したので、地元との関係も自然に深いものがあった。

 また、毎秋一回行なわれる運動会も体操学校、荏原中学校ならびに荏原郡下小学校連合の三者一体の連合運動会という形で行なわれ、宮家や有力者を来賓に迎え、数千人の観衆を集めて行なわれる極めて盛大な行事であった。

 しかし、明治・大正期には体操学校の所在地として好適な環境であった大井の地も、その後の都市化の波や、道路拡張による校地の削滅、生徒数の増加等によって昭和期に入ると狭隘となった上、昭和十年一月には火災による全焼などがあって、ついに限界に達し、昭和十二年、世田谷区深沢町へと移転したのであった。