日清・日露の両戦争をへて日本の資本主義は急速に発達した。その結果都市への人口集中も急速に進んだ。小田内通敏はその著『帝都と近郊』で、明治三十年代までの東京市の南の先端は品川町にあったが、日露戦争後の四十年代に入ると、市街の先端は大崎町・大井町へと伸び、その突出部分は入新井町・馬込町にまでおよんだ、と指摘している。
この傾向は一九一四~一八年の第一次世界大戦中の空前の経済的繁栄のなかでいっそう強まった。人口は、明治四十二年(一九〇九)を一〇〇とすると、一〇年後の大正七年(一九一八)には品川町一九二、大崎町二六八、大井町一七八、平塚村一九九となっており、品川区域全体では二倍強というめざましい増加を示している。
人口増加の主要原因はいうまでもなく、この地域の工業発展にあった。大正七年時点で、営業中の各工場の創業年次をみると、日清戦争後から明治末年に至る時期と、第一次世界大戦中の大正六・七年の二つの時期に集中していることがわかる。しかもこのなかで特徴的なことは、第一に、機械器具・化学・金属の各工業の多くが第一次大戦期に創業されていることであり、第二に、一〇〇人以上の職工使用の比較的規模の大きい工場の約三分の一が大正五年から七年までの間に創設されていることである。こうした傾向は、日本の資本主義発達とぴったり一致するものであった。
こうしたなかで特に顕著な変化をみせたのは、大井町と大崎町であった。日露戦争前は純農村にちかかった大井町は、戦後になると工場の進出がめだち、ことに第一次大戦期になると、大正五年には日本理化工業が、翌年には日本光学大井工場、八年には精密機器・測定具製造の朝日衡器、翌九年に三菱航空大井工場が創設されるなど、重工業・精密機械工業が建てられた。これは立会川を工業用水として利用でき、地盤の固い台地という立地条件の有利さに加え、大正三年の東海道線大井町駅の開設によって資材製品の輸送に大きな便宜をもっていたことに因る。大正四年には新橋から鉄道院大井工場も移転してきたが、敷地八万七八〇〇坪、従業員は常時一、〇〇〇名をこえるという大規模なものであった。
工場の進出にともない、住宅地・商店街も形成された。その半面農家戸数は激減するにいたった。明治三十七年(一九〇四)専業二六八、兼業一〇三、計三七一戸あった農家は、大正十年(一九二一)には、専業二八、兼業一六、計四四戸を数えるにすぎない。
大崎町の場合は、さきにもみたように、この時期品川区域内でももっとも人口が急増したところで、わずか十年間に二・七倍にもなった。これは目黒川沿岸への工場進出を主要因とするもので、ことに大正五年(一九一六)以降の工場の創設がめだつ。大正七年末調査の大崎町所在工場の約六割が大正五年以降の創業になるものである。
大崎町の工場増加は、隣接の農村平塚村にも影響を与え、大正期に入ると人口の増加がめだってくる。それは工場勤務の人びとの住宅地としての性格をもつものであった。したがって、農業は従来と同様比較的安定した状況にあった。農家戸数は明治三十七年(一九〇四)の四〇八戸は、大正元年(一九一二)に五〇〇戸にふえ、大正七年(一九一八)四八三戸とわずかに減少しているにすぎない。
このように、大正期(日露戦争から関東大震災まで)の品川地域の歴史を特徴づけるものは、工業化であった。
ところで、このような工業化はあらたな社会問題を発生させることになった。明治三十年代におこった日本の労働運動は、明治三十三年三月公布の治安警察法によって合法的な組合運動を困難にさせられ、その後も明治四十三年の大逆事件に示されるような国家権力の強圧のもとで順調な発展を妨げられてきた。こうした厳しい状況をきりひらき、労働者の組織化と労働条件の改善、地位の向上に大きな役割をはたしたのは、大正元年(一九一二)八月三日、鈴木文治によって組織された友愛会であった。労働者の相互扶助と社会的地位の向上をかかげて誕生した友愛会は、当初はわずか一五人であった。それが四年後の大正五年(一九一六)には会員二万、翌年には三万をこえるという急速な発展ぶりであった。これは、なによりも当時の労働者が社会的に蔑視され、ほとんどスラムに等しい生活環境にあって、そこから脱出しようとする意欲に、友愛会の趣旨が訴えたことによるものである。
労働者組織化の新しい波は品川区域をもひたした。大正二年(一九一三)十二月には、友愛会大井分会が城南支部の一分会として生まれた。翌年一月には友愛会品川分会が発足し、さらに数日おくれて大崎町の労働者を中心に城南支部第四十八部会も発足した。こうして大井・品川・大崎に友愛会の三つの地域組織があいついで結成された。
これらの三つの組織は着実に会員を増加させ組織を拡大していった。大井分会は発足一年後の大正三年(一九一四)十一月には、早くも分会から正会員一〇〇名以上ならばつくれる支部へと発展し、荏原支部と称した。同年十一月には大崎の城南支部第四十八部会も大崎支部へと発展し、翌年一月、品川分会も支部へと発展をとげた。こうした品川区域における友愛会組織は東京府下のなかでも、もっとも進んだ区域の一つであったといえよう。
労働者の組織化が進むにつれて労働争議も頻発するにいたった。ことに第一次大戦中の好況のなかで、物価は急騰し、賃金の上昇にもかかわらず実質賃金は低下していった。こうしたなかで労働争議件数は増加した。全国的にみても大正五年(一九一六)には一〇八件、六年三九八件、七年四一七件、八年には四九七件を数え、参加者も年々増加し、大正六~八年は戦前労働争議のひとつのピークをつくりだした。
品川区域でも大正五年一件、六年なし、七年一件、八年一〇件、九年二件、十年四件、十一年四件、十二年一件、十三年一九件、十四年八件、十五年八件を数えている。この区域の特徴は、全国的なピークが大正六年~八年であるのにたいして、大震災後の大正十三年がピークとなっていることである。その要求内容からみると全国的動向と同じように、大戦期には賃上げ要求に重点がおかれ、大正九年の反動恐慌後には失業問題の深刻化にともない「解雇手当増額」「復職要求」、さらに「賃金切下げ復活要求」などが主内容をなしている。
争議の多くに友愛会員の活躍が目だつが、そのなかで友愛会員の数も急増していった。大正八年(一九一九)八月には友愛会は大日本労働総同盟友愛会と名称を変更し、支部を労働組合に改め、労働組合本来の姿勢を明確にしていった。翌大正十年(一九二一)五月二日には、日本最初のメーデーが上野公園で行なわれた。そして十月の大会で大日本労働総同盟友愛会は、大の字をとって日本労働総同盟友愛会に、さらに翌十一年の創立第十年記念大会では、友愛会をとって日本労働総同盟という名称が確立した。この過程はたんに名称変更の問題でなく、従来の労資協調的な友愛会から、真の労働組合への脱皮の過程であった。
しかしこの時期から、総同盟内部の左右の対立が表面化した。そしてついで大正十四年(一九二五)には総同盟は分裂にいたったが、その導火線となったのが、関東鉄工労働組合大崎支部連合会における左右対立であったことも、この地域の労働運動の歴史のなかでは見のがすことのできない重要事件であろう。
工業化の波は、労働運動という現代における基本的な社会問題を提起したが、もう一つこの時期の重要な動きは、都市民衆の運動であろう。日露戦争という国の総力をあげての戦争と、その後の軍備拡張を中心とする戦後経営は、国民に過大な負担と犠牲を強いた。その結果、国民のなかに不満と怒りが蓄積されていった。この怒りと不満は、明治三十八年九月五日の日比谷焼打事件となって爆発し、以後事あるごとに都市の民衆は暴動をもって立ちあがることになる。その最大にして最後のものが、大正七年(一九一八)の七月から九月にかけて全国的規模で起こった米騒動であった。
このような動きは品川区域でも、この時期いろいろな形であらわれてくる。大正二年(一九一三)の大正政変に際しては、荏原郡民大会が開かれ、翌大正三年の営業税など悪税廃止運動のなかでは、再び郡民大会が開かれるなど活発の動きが見られる。
こうした動きは都市民衆の政治的覚醒をもたらし、政界にも大きな影響を与えていく。とくに品川は高木正年(憲政会―民政党)と漆昌巌(政友会)という二人の政党政治家を衆議院に送っていただけに、各町村とも政党化の傾向が強かったことも、この地域の特徴であろう。
しかし、この地域の政界の動きも、やがて大正十四年(一九二五)の普通選挙法の公布、無産政党の結成によって大きく変わっていくことになる。それは大正十二年(一九二三)の関東大震災後のこの地域の急速な人口増と、市街化によって生じた新たな都市問題とともに重要な問題であった。