機械工業の発展と電気機械の明電舎

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日露戦争後の電力事業の進展が電動機・変圧器の需要を増大させた結果、明電舎にとっても事業の伸展をもたらし、工場の狭隘さを痛感させる結果となったことは前述した。当時の京橋明石町では、これ以上敷地拡張の余地がなかったのである。このため適当な工場用地を物色した結果、当時は人煙稀な郊外の田畑に囲まれた大崎駅に隣接して、面積約六、〇〇〇坪を求め、これに二、二〇〇余坪の工場を建設せんとしたのである。繰返し述べるまでもなく、目黒川に近くて舟運の便にも恵まれていたので、旧平塚村桐ケ谷付近より土砂を運んで埋立て地均しをしたのである。明治四十五年二月に起工、翌大正二年五月に落成、移転を完了し、六月一日より開業し、こえて大正四年五月には朝野の紳士を招いて盛大なる移転披露を催したという。この移転当時の構成は、職員一五、六名、職工二〇〇名程度であって、大正三年の春に開かれる東京大正博覧会に自信ある作品を出陳せんと、注文品製造の余暇を利用して、この出品製作に全力を傾注したといわれている。すでにこれより先、明治四十年の東京勧業博覧会には、「二十五馬力三相誘導電動機」を出品したが、大正三年春の大正博覧会には、「百馬力三、三〇〇ボルト」と三相誘導電動機と無線電信用高周波発電機を出陳して、この間の進歩の大きさを示しているのである(『重宗芳水伝』)。大正初期の主製品は低圧三相誘導電動機と柱上変圧器であったが、第一次大戦を契機に、国産の大型電気機械の需要に応えて、五、〇〇〇KVA級の水車発電機の製造が可能となった。さらに、かかる国産技術の向上に備えて、後述の株式会社に改組後、優秀な技術者を養成すべく、先進的な技術研修のための欧米派遣、あるいは研究所設立による新製品の開発と製品の改良がはかられてゆくこととなる(『明電舎技術史』)。

 かかる折、重宗芳水は、大正五年初夏より不治の病に冒されていくのであるが、第一次大戦による好況到来を機として、従来の個人営業をば資本金二〇〇万円(半額払込)の株式会社に改め、大正六年六月一日に登記を完了している。かつての三吉電機工場在勤時代に指導をうけた岡源三を取締役に迎えるとともに、のちにふれる藤倉電線ならびに同じく大崎町に設置された藤倉合名防水布製造所の松本留吉を相談役に迎えている(『松本留吉』)。

 この時以後、大正末期に至る経営収支の概況を示せば、次表の通りである。第一次大戦終了後も一貫して、総収益の伸びがみられるが、純益では、第一次大戦終了直後より関東大震災後の方が大きく、後期繰越金では第一次大戦直後の方が大きく、配当金は、大正十二年下半期が最高である。しかも、大正八年末と翌九年二月には、積立金より資本金の払込充当をおこない、大正十年八月には五〇〇万円に増資している。

第74表 明電舎の経営概況(大正期)
年次 総収益 純益 前期繰越金 後期繰越金 配当金
実数 指数 実数 指数 実数 指数 実数 指数 実数
大正6年・下 837,786 100 147,715 100 23,715 100 65,000
9 ・上 1,188,625 142 396,211 268 54,649 100 82,860 349 90,000
1,314,095 157 371,259 251 82,860 152 66,119 279 100,000
12 ・上 1,566,813 187 497,646 337 29,787 55 58,683 247 130,000
1,309,148 156 463,904 314 58,683 107 59,587 252 200,000
昭和2年・上 1,519,485 181 222,892 151 8,250 15 8,539 36 100,000

注) 各期「営業報告書」より作成。

 かかる明電舎の伸展に対応して、重宗芳水は、電力事業ならびに電気化学工業にも手を拡げ、たとえば、福島県東白川郡棚倉町・塙町、茨城県久慈郡大子町を中心とした、資本金一二万円の棚倉電気株式会社を大正元年十月に創立、取締役社長に選ばれ、大正四年には、匿名組合村松組を組織して、発展企業に投資し、鰺ケ沢電気株式会社をはじめとして電気事業に投資を試みてゆくのである。この村松組は、大正六年株式会社方電社に事業継承されてゆくが、同年十二月三十日重宗芳水がラジュウム療法の効もなく没するにおよび、この方電社は解散した。