マツダ電球と東京電気大井工場

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明電舎の創設者重宗芳水が、上京して始めて技術を習得した三吉電機工場の創設者三吉正一は、すでに明治二十三年四月に、当時帝国大学工科大学の藤岡市助とともに、当時の東京市京橋区槍座町に白熱電球製作所「白熱舎」を創設している。そして、八月十二日の暑い盛りに、日本で初めて白熱電球が造られた。日清戦後の明治二十九年一月には、資本金五万円の東京白熱電灯球製造株式会社に改組されて、同年九月には芝三田四国町(現港区)二番地に工場の移転準備を始め、こえて明治三十一年五月にこの三田工場に移転した。そして翌三十二年一月には、社名を東京電気株式会社と改めている。しかも、興味あることには、前述した官営時代からの品川硝子会社のあとに、明治三十五年三月、同名ともいうべき「品川硝子製造所」を設置、これまでガラス球を岩城ガラス商会(かつて、官営時代の品川硝子の職長であった岩城滝次郎のガラス製造所と同一であろう)よりの納入品にたよっていたものを自給していこうとしたのである。ここでの技術は、明治三十八年二月には同社深川硝子工場へひきつがれてゆくこととなるが、さらに、日露戦時の電気供給事業発展の気運に乗じて、次第に独占的な新製品たるタングステン電球の製造販売に力を注いでいった。そして、明治四十年五月には、川崎駅に隣接した当時の神奈川県橘樹郡御幸村に地所約二万八〇〇〇坪を購入して、川崎工場の建設に着手していた。だが、当時の激増してゆく需要に応じ切れず、やむなく明治四十四年十二月に、大井町字関ケ原一、三〇二番地所在の元後藤毛織工場を借受け、翌年二月からタングステン電球の製造を開始し、直ちに前述した三田・深川両工場の設備の一部をここに移転している。この大井工場の敷地は一、九二〇坪、工場は煉瓦建四〇九坪一棟で、当初の製造能力は一日平均三、〇〇〇個であったという。同年五月には、さらに炭素電球工場も設置され、ここに大井工場は、タングステン電球・炭素電球・陶器(バルブ用)の三工場を有する大工場となった。大正と改元されたこの年暮には、付近の工場建物八、〇〇〇坪を購入して、名実ともに当時の水準における一大電球工場となってゆくのである。さらに、大正四年二月には、大井工場内に小型電球工場が竣工し、翌大正五年一月末には、従来の三田工場の設備一切を大井工場へ移転してゆくのである(『東京電気株式会社五十年史』)。


第46図 東京電気(株)大井工場(大正末期)

 ところで、このように、タングステン電球が急速に普及するに伴い、東京電気株式会社は、同社のタングステン電球に「マツダ」という商標を付し、カーボン電球と区別することとしたのである。そもそも「マツダ(Mazda)」という名称は、東京電気が技術提携していた米国G=E社によって、明治四十二年(一九〇九)はじめて採用されたが、翌年にはこの米国G=E社と提携する世界各国の有力電球製造会社が「マツダ」というマークを付することとしたのである。語源としては、ペルシャのゾロアスター教(拝火教)の主神「アウラ=マツダ」に因んだもので、正義と善想を尊び、悪霊と不断に戦って、現世を光明・真実・清純の世としたいという。つまり「世界をあまねく照らす光」を象徴するものであるといわれている(『日本電球工業史』)。そして、明治三十年代以降、輸入電球に対抗する状況の下での国内の電球製造業者としては、この東京電気株式会社一社のみであったため、とくにタングステン電球出現後は、新設会社(その規模・経営内容は不明だが)にしても、資本・技術の両面から、東京電気と提携せざるをえず、逆にいえば、その設立当初から統合されてゆく傾向を色濃くもっていたものといえよう。

 しかも、大正三年二月からは窒素電球、さらに、第一次大戦中には、欧米諸国から豆電球ないしはクリスマスツリー用電球の注文も殺到し、さらに自動車用・一般照明用とその電球品種や使用範囲が拡大されてゆくのにつれて、さらに電力会社における定額料金制から従量灯料金制への変更、あるいは関東大震災後の、量産体制の確立と合理化の進展による電球価格の二~三割値下げも手伝って、社会生活にしめる電灯の役割がいっそう拡大・強化されていったのである。

 ともあれ、このように、品川区域内におけるクリスマス用電球の創始も大正中期、この東京電気大井工場と関連があることは、明記しておく必要があろう(『東京電球工業史』)。