山武商会と軸受工業の日本精工

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山武商会(現在山武ハネウェル計器株式会社)は、外国製機械の輸入貿易を営業種目として、日露戦後の明治三十九年十二月一日、京橋区(現中央区)五郎兵衛町一番地に創立された。山武商会の創立者の山口武彦は、鹿児島県出身で、東京工業学校(現在の東京工業大学)機械科卒業後は、当時の農商務省特許局に入り、機械審査を担当していた。このころ農商務省の初代特許局長は後に昭和恐慌期の政界・財界の大立物ともいうべき高橋是清であった。しかも、当時、現在の富士銀行の創設者安田善次郎や高橋是清らは、日本に製釘業をおこすべく日夜腐心していた。しかも、その工場建設と外国からの機械購人の撰定者を物色中であったから、さきの山口武彦に白羽の矢が立ち、山口はひとまず安田銀行に入行して、明治二十八年二月から二年有余、欧米を視察して、製釘技術の研究と製釘機械の購入にあたることとなった。帰朝後、安田製釘所の技師長に迎えられたが、この新しい製釘工場は数年にして中断の止むなきに至り、山口は、北海道炭砿鉄道会社嘱託、函館ドック支配人などを歴任したが、本邦機械工業の発展のために、輸入機械貿易業として独立を決意し、ここに、個人商店山武商会を創立したのである。のち第一次大戦が始まった大正四年六月、山武商会は、当時三菱ヶ原といわれ、丸之内草創時代であった麹町区(現千代田区)有楽町に店舗を移している。すでに、明治末期の四十三年十月には、山武商会は当時の日本には目新しかった「酸素溶接切断機」をドイツから輸入し、この機械を主力にして、のちにふれるように別会社として日本酸素合資会社を設立し、さらに第一次大戦勃発より早く大正三年二月二十日に資本金五万円の日本精工合資会社を設立している。いうまでもなく、この日本精工創立当初の本邦機械工業は、まだまだ先進国に比べて発展がおくれ、軸受を必要とするような段階には達していなかったといえよう。だから、当初は山武商会が輸入したアメリカのナショナル=アクメ社作製の四軸自動盤四台を使って、やっと海軍用の水雷ネジの製造にとりかかったのである。当時の民間機械工場では、通常はベルト掛け旋盤や足踏み旋盤などを使用していたのに比べれば、非常に能率のよい機械だったのである。

 いうまでもなく、これら二つの合資会社の設立は山口武彦が製釘工業移植の苦い経験をふまえての、酸素溶接といい、軸受製造といい、先見性あるいはフロンティア精神による抱負の結実したものだったのである。そして、第一次大戦勃発によるドイツからの輸入機械の杜絶、あるいは発注貨物の拿捕などのため、山武商会が大打撃をうけたにもかかわらず、日本酸素は、陸海軍工廠向けに酸素製造および溶接や切断作業を、日本精工は、大阪砲兵工廠などからの信管部品を多量に受注してはじめて、いわば山武商会が流通過程でうけた損害をうめ合わすのに十分な役割を担うことができたといえよう。

 さて、この日本精工合資会社の出資者は、山口武彦のほかに、前述した高橋是清および日本銀行関係者などで、工場敷地四七三坪を大崎町居木橋村四一〇番地に求めている。その理由には第一に大崎町付近の地価が安かったこと、第二には、姉妹会社ともいうべき日本酸素の大崎工場が、やはり旧平塚村桐ケ谷付近にあったためであった(『荏原郡勢一覧』によれば大正七年で職工一〇名)。日本精工大崎工場約一〇〇坪の建設には、地盤を固めるために、従来の杭打ち方法の「ヨイトマケ方式」を排して、当時としては異例の東洋コンプレッサー会社の機械方式によったという。当時の追憶によれば、「日本精工合資会社山武商会」の看板がかかり、精工舎と混同されてか「時計」を造っている工場かと思われたらしい。付近には、工場がなく、たまたま隣に屠牛場と牛舎数棟があり、工場内に牛がとびこみあばれまわったこともあるという。白壁で窓が高く、瀟洒な建物の大崎工場は、五反田あたりからも畑を通してみえ、始業・終業をつげるポーの音は、人々になじまれたといわれている。当時の東京市域を貫流する河川と同様、近くの目黒川が氾濫するとすぐ工場は浸水し、機械の掃除と跡始末が大変で、大雨が降るとモーターを天井にあげて、職工たちは帰宅したといわれている。

 このように、第一次大戦期に、海軍の下請工場として、各種の兵器部品の製作に努め、精密ネジ・砲弾信管・信管蓋ネジ・防毒面・酸素バルブとボットル・酸素ノズルとマウスピースなどを製造した。このうち、信管や信管ネジはロシア向けで、その製作個数は二〇〇万個にも達したほどであった。

 かくて、第一次大戦中の好況のなかで、大正五年十一月二十日、日本精工は資本金三五万円をもって合資会社から株式会社に改組し、安田保善社総長安田善三郎・日本銀行総裁三島弥太郎・日本興業銀行総裁志立鉄次郎らを主要株主とすることができた。翌大正六年七月十七日は、大崎町に本社を移して、工場と一体化したのである。創立当時の幹部は、多くが海軍出身者で占められ、職長級もすべて、横須賀・呉両海軍工廠で鍛えられた熟練工で固められていたという。いわば経営的にも技術的にも海軍の指定工場であり、日本精工全体が実質的に海軍の下請工場と同様であったといえよう。

 株式会社創立当初には、職階制(職員・準社員・雇員職工)ならびに定員制(三七七名)がとられ、職工の男女比率も約半々であったものが、徐々に男工が全体の八〇%を占めるに至っている。また職工養成に関して「徒弟制度」が設けられ、人撰により年齢十六歳ころから全員会社の寮に収容され、四年間にわたり特別教育と実技、とくに軸受製作の特殊技術の習得に努め、一般職工とは別に好遇されたといわれている。

 ところで、明治四十三年日本に輸入された最初の軸受は、スウェーデン製のSKF製のものであったといわれるが、第一次大戦を迎えて、「ボールベアリング」という名前もまだしられなかった当時に、日本精工では苦心惨胆して、「自動調心形軸受」を横須賀海軍工廠に納入した。大正五年なかばのことという。販売は、もちろん山武商会を通じていたが、海軍に準ずる受注先としては、石川島造船・浦賀ドック・横浜造船・川崎造船・藤永田造船・長崎三菱造船など、民需というより官需の延長の造所船が多かったといえる。また〝DAT〟で有名な「快進社」の国産車製作に関連して、大正六、七年ごろには、自動車用円錐コロ軸受を納入している。さらに紡績用スピンドルも、従来はそのほとんどを、イギリスからの輸入に仰いでいたが、日本精工の四軸自動盤の高能率を活用すべく、このスピンドルおよびリング製作を開始し、富士瓦斯紡績・尼ケ崎紡績・岡山絹糸・鐘ケ淵紡績・和歌山紡績など主要紡績会社に売込んだが、必ずしも好結果をもたらさなかったようである。

 このように、戦前日本の軸受工業の先頭に立った日本精工としても、昭和初期までは国産材料も粗悪品が多く、鋼球・コロは大部分を輸入品に仰ぎ、たんに内外輪の加工と組立に終わったといわれている(『日本精工五十年史』)。

 大正期の経営概況は上の表の通りであるが、大正八年下期からの倍額増資に示されるように、配当率、従業員数はこの時期までをピークに以後減少に転ずる。だが、純益金は、関東大震災をのぞいて着実に増大しているといってよい。

第75表 日本精工の経営概況(大正期)
年次 公称資本金 総益金 純益金 配当率 従業員
事務員 現業員
千円 千円 千円
大正6年 350 54(100) 32(100) 10 16 201(100) 217(100)
350 64(118) 36(112) 10 14 246(122) 260(119)
8  350 79(146) 28(87) 10 14 232(115) 246(113)
700 87(161) 33(103) 12 ―   ―  
10  700 105(194) 31(96) 8 16 180(89) 196(90)
700 118(218) 42(131) 8 ―   ―  
12  700 165(305) 15△    無配 13 150(74) 163(75)
700 78(144) 7(22) ―   ―  
14  700 104(192) 39(121) 6 13 112(55) 125(57)
700 134(248) 46(143) 8 ―   ―  
昭和2年 700 137(253) 49(153) 8 18 120(59) 138(63)
700 150(277) 50(156) 8 ―   ―  

注 『日本精工50年史』より作成。 ―は不明,△は赤字。

 ところで、大正七年十一月に第一次大戦も終わり、やがて大正九年三月に反動恐慌が襲来した。一縷の希望をかけていた海軍による「八八艦隊案」も大正十年十一月のワシントン軍縮会議の結果、中止と決定、ここに海軍軍備は縮小され、兵器関連産業は不況のどん底に投げこまれた。かかる不況裡に、大正九年一月八日から二月中旬までの三四日間日本精工でも解雇者をめぐる一時金支給問題が原因で争議が発生している。すなわち、一月八日に友愛会加入三〇名を含む機械工三〇〇名が、請負歩合二五%増、勤続手当増額、軍務召集中の家族扶助など十ヵ条を要求、ストライキに入ったが、結局、日本機械技工組合の調停で一月十九日にひとまずストライキを中止している(『日本労働年鑑』大正十年版)。「社員及準社員に対する退職手当規程」を制定して五月八日にはひとまず解決したが、大正十四年二月には再び争議が勃発している。そして、これを契機に工員のみの「精技会」という機械連合会に属する労働組合が結成されてゆく。

 このような不況裡に際して、日本精工にとっては軸受生産にのみ甘んずることは許されず、銃砲・猟銃・自転車の変速器、あるいに靴下止め金具にまで手を伸ばしたといわれている。そしてさらに、関東大震災により、二十数日間の休業と、被害総額約二万八〇〇〇円(当時の半期売上高一六万円の約一八%に当る)という痛手を〓ったのである。

 かかる業績不振の挽回のためにも、日本精工は、軸受専業メーカーとして、大正末期から転換をとげてゆくのである。