日本精工とならぶ工具・工作機械メーカーの園池製作所の前身、池田工具製作所が、東京本郷(現文京区)千駄木町に呱々の声をあげたのは明治四十五年六月十四日であった。ちょうど、旧幹線ともいうべき東海道本線ならびに山陽本線にはじめて一、二等特急列車が運転された前日であるが、その製作所は牛小屋を改造した約二〇坪の粗末な建物で、旋盤・フライス盤・研削盤などを備えて、バリカン・西洋剃刄・ゲージ・カッター等の製造を始めたという。もともとこの池田工具製作所の創設者池田辰衛は、さきの山口武彦と同じく、東京高等工業学校に学び、卒業後呉海軍工廠造機部に勤務、当時造機部長だった水谷叔彦海軍機関大佐の下で機械工作法の指導に当たり、信友堂から『実地工作術』という図版四五〇枚を含む大著まであらわした人であった。この著書は、三十数版を重ねたというから、当時のベストセラーといえようが、日露戦争後にその著書の印税一千円余をえて、アメリカに渡り、世界に著名な工作機械メーカー、プラット&ホイットニー社に就職、その工場で加工・仕上げ・組立てから、刄物の熱処理に至るまでいろいろな技術を習得し、さらに、設計部員に採用されて、旋盤をはじめ各種工作機械の設計にも当ったという。かくてアメリカの新知識の習得に努めたのち、三年後に辞職して、英・独・ソ連を経由して帰国したのが明治四十二年であった。この当時の日本における機械工業は、富国強兵政策のための、軍事的な造船・車両の製造に重点をおいていたが、ともに先進国からの輸入に大きく依存していたのであり、基礎的な工作機械部門はまだまだ充分な発展を示していなかったのである。
このことを逆にいえば、本邦機械工業の先覚者たちは、「腕(ウデ)と勘(カン)」によって、工作機械の国産化を図り、その発展を推進していったものといえよう。なかでも、池貝鉄工所の池貝庄太郎、精工舎の吉川鶴彦、唐津鉄工所の竹尾年助の三人は、当時「無位無官で博士以上の功労者」と称されていた。だから、帰国するや唐津鉄工所の技師長として迎えられた池田は、この「ウデとカン」に加えて、先進国の新知識をプラスしようとしたと考えられる。これに満足せず、上京して、池田工具製作所を創設したのである(ダイヤモンド社編『園池製作所』)。
しかも、かつて呉海軍工廠時代の上司であった水谷叔彦海軍少将が、大正二年日本製鋼所室蘭製作所工業課長事務取扱を委嘱された(『日本製鋼所社史資料』上巻)のを機会に、室蘭製作所の顧問となり、池田工具製作所の仕事とかけ持ちで、毎月北海道室蘭に渡り、機械設備の調達・配置・据付・設計の仕事を引受けていた。
さてこのようにして、池田工具製作所は、バリカン・西洋剃刄等の製作に努力を傾けてゆくが、これら理髪道具は、たまたま清国での「剃髪令」を目当てにしたものといわれている。しかし、池田工具製作所の経営はかならずしも安定はしなかった。
ところが、好運にも池田辰衛は、外交官出身で横浜正金・十五銀行頭取を歴任した園田孝吉の次男園田武彦とめぐり会う。園田武彦は、イギリスの首都ロンドンで生まれ、イギリスのテクニカル=カレッヂで機械工学を学び、実際に工場でも働いたことがある。のち、ハンドレーページ飛行機製作所に入り飛行機の設計製作をも試みている。そして在職中には、私費を投じて複葉複座の「園田号」を製作、自分自身も乗込んで操従にもあたっている。大正三年に、園田武彦は帰国するが、日本に飛行機製造会社を設立しようとする念願を秘めていたのである。しかし、現在とちがって、その当時飛行機に乗ることは、あたかも「軽業師」のすることとみなされ、産業界・金融界の協力や援助もうけることは不可能に近かった。それをみて、武彦の父、園田孝吉は、明治維新の元勲であり、政界・財界にも通じた井上馨を通じて、後に新興財閥の雄となり日産コンツェルンを創設した鮎川義介に、かれの息子武彦をひきあわせてもらった。鮎川は、新興財閥の創設者たちに共通して、技術家でもあり、芝浦製作所の職工として働いた経験もあって、池田辰衛を紹介したのである。ここに経営にゆき詰まった池田と機械工学を学び航空機製造の夢を捨て切れなかった園田武彦が共同して、工具製造の経営にあたることとなる。池田の「今後の経営方針及目論見書」の大略は第78表の通りであるが、当時三井物産機械部長であった吉富〓一の助言もあり、大正三年三月、園田武彦は、父、孝吉の援助をえて資本金五万円を出資して共同経営に参加した。名称も両人の頭文字を組み合わせて、「園池工具製作所」としたのである。
A) | 増設費 | 15,000円 |
負債償却元金 | 8,317円 | |
負債金利 | 240円 | |
運転資金 | 6,443円 | |
(小計) | 30,000円 | |
B) | ||
大正3年4月1日~7月30日 | ||
1ケ月平均収入 | 1,500円 | |
〃 支出 | 1,335円 | |
C) | 大正3年8月1日~大正6年7月30日 | |
1ケ年平均収入 | 37,000円 | |
〃 支出 | 23,664円 |
注)前掲『園池製作所』による。
かくて、従来の設備のほかに、旋盤は四台、フライス盤二台、研磨盤二台、ボール盤その他合せて十数台の機械と炉二基を整えたのである。従業員も、職工・見習職工、女工計約三十名、事務員など職員は六人で、工具やゲージ類のまとまった製造が可能となったのである。当時の製品カタログには、池田工具製作所当時からの西洋剃刄をはじめとして、ミーリンダカッター・エンドミル・挽割丸鋸総型カッター・ドリル、ドリルチャック、ダルマ台など多種多彩の切削工具がならべられている。ただここでも問題は、大量の製品売込先で、園田・池田は、陸海軍工廠を歩きまわって売込みに努めた。かくて第一次大戦直前という情勢緊迫とも重なり、呉海軍工廠や大阪砲兵工廠などから、順次注文がくるようになったのである。
このようにして、園池工具製作所も軌道にのり、設備も拡張されてゆくに従い、騒音や悪臭のため、工場周辺の住民から苦情がもちこまれた。もともと本郷千駄木町周辺がかつての道灌池の埋立地でもあり、地盤軟弱で震動になやまされていたのである。工場の移転拡張が計画され、東京府の城南地区か京浜地方の候補地を検討した結果、電力事情に恵まれた明電舎の南接地、大崎町居木橋に約三、〇〇〇坪の土地を買収した。第一次大戦勃発後の大正四年のことであったが、付近は水田か雑木林であったという。ここに約一、二五〇坪の木造建本工場と約二三坪の総二階建事務所を建築し、完成と同時に本郷千駄木町から移転した。当初、園池のことを「カミソリ工場」とよんだといわれているが、工作機械への理解の不足を示すものと考えられる。しかも、この大崎への工場移転を契機に、陸軍砲兵工廠・海軍工廠・唐津鉄工所から優秀な技術者を招いているのであって、次第に工具製造メーカーから工作機械メーカーへ脱皮してゆくのであるが、軍工廠との関連性のもつ意味に注目しておきたい。
さて第一次大戦の進展につれて、輸入杜絶から、軍民の需要が増大、本邦機械工業が急速に展開してゆくが、大正四年には、池貝鉄工所製の旋盤五台がイギリスへ輸出されるのを皮切りに、国産の工作機械が海外市場へ進出することとなる。園池でも四〇インチホブ盤という、本邦最初の歯切盤が製作された。これらは、従来、まったく海外に依存していた高級工作機械だったのである(『現代日本産業講座』Ⅵ)。さらに、このころ、大阪砲兵工廠からゲージ類五〇万円分を受注するという大口注文が舞いこんだ。だが契約時に半額の保証金二五万円納入がこの受注の前提であった。当時、園池で一番高給の職員の月給が六〇円であり、さきの「目論見書」によれば、見込年収三万七〇〇〇円という状況だったから、当然のこと金策に苦慮した。さらに、当時精密測定を行なう設備がなく、「ねじゲージ」納入の場合には、初めの一個を仕上げると、大阪砲兵工廠に飛んで行って計測し、すぐ夜行列車で帰京して、次の製品の手直しをしたという。このような技術的条件を克服して、大正七年からマイクロメーターを製造販売し、さらに、大正十二年には当時世界最高のスイスのシップ社製の万能測定機を購入している。このような発展のなかで、第一次大戦後の好況期をふまえて、大正六年三月三日に株式会社に改組、資本金も二五万円に、社名も園池製作所に改め、「工場用機械及工具類其の他極めて精密を要する諸機械の製作」を事業目的とした。資本金も一年後には倍額とし、株主に一割五分の配当をおこなったという。好況の波にのって、さらに設備拡張を続けながら、工作機械製作部を独立強化させ、他方では、工場から徒歩五分のところに、一、八〇〇坪の土地を借りて社宅建設も試みられたという。
しかし第一次大戦の終了にともない、大正七年末から日本資本主義全体に、いったん持直したものの深刻な不況が襲来する。園池製作所も当然のこと不況のあおりを受け、製品たる工具・工作機械ともに滞貨を重ねたのに反し、将来の増設を見越した発注資材はどんどん送り込まれてくる始末であった。赤字は累積し、借入金の利息も払えず、当時の資本金五〇万円に対して、銀行借入金は実に一七〇万円にも達したといわれている。さらに、園池の車の両輪の一つともいうべき、創業者池田辰衛は、大正七年十二月二十五日に没した。享年四十歳であった。かくて不況に直面した経営不振に園田武彦は全く窮した。武彦の父園田孝吉男爵はみるにみかねて、家屋を抵当にして、園池の借金にあてようとした。これを知った園田孝吉と旧知の川崎造船所(現在の川崎重工業株式会社)社長松方幸次郎は、この園池製作所の立て直しに参加し、技術者として有名であった日本スピンドル社長桑田権平を送りこんで再建に当らせることとした。他方で、松方は、従来の工作機械製造部門を廃止して工具製造だけに専心するという堅実経営に移行させようとした。園田の財政建て直しのためには、以後一割配当の保証を条件に、一〇〇万円の負債を切捨て、資本金を七〇万円に増加させ、これを川崎造船所と銀行との折半保有という形で債権者の大正銀行と折衝しようとした。大正銀行は結局、これを負担できず、一切を十五銀行(昭和二年四月二十一日に休業、のち三井銀行に合併)に肩代わりすることとなり、かくて川崎造船所と十五銀行が、園池製作所の経営に参加することとなるのである。
なお、後述のように全国に有名な園池製作所争議が、大正八年七月、翌九年一月および十年一月と三回にわたり、労使の激しい対立の中で展開されたが、反動恐慌後の不況期にかかわらず、軍工廠をはじめ、一般産業界でもゲージシステムの重要性が認識され、園池製品は高く評価されたようである。さらに、関東大震災後の大正十三年九月以降「ガスメーター」製作にのり出してゆくが、現在と比べて興味深いのは、すでに不許可になった場合に備えて、許可のいらない「瞬間ガス湯沸器」、「ガス洗濯機」、「ガス魚焼器」などの、ガス器具の研究や試作をも開始している。