ゐのくち式ポンプと荏原製作所

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水力学の泰斗で東大教授の井口在屋(いのくちありや)博士を主幹に、その弟子畠山一清を所長として、京橋区(現中央区)東鍋町にあった工業雑誌社の二階に「ゐのくち式機械事務所」を創設したのは、大正元年十一月四日であった。この荏原製作所の前身ともいうべき機械事務所は、当初は工場をもたない単なる設計事務所にすぎなかった。というのは、それまで畠山は芝(現港区)金杉町にあった国友機械製作所の技師長として、恩師井口博士が明治三十七年に理論的完成をとげた「渦巻ポンプ」の企業化・製作にあたっていた。たとえば、この間の事情を示すものに「明治村」機械館(愛知県犬山市所在)展示の国友機械製作所製造、荏原製作所出品の「ゐのくち渦巻ポンプ」がある。ここで「渦巻ポンプ」とは、遠心力を利用した揚水ポンプと考えればよい。だが、この斬新優秀なポンプ製造に努めていた国友機械製作所も、日露戦争後の明治四十年代における不況のあおりをくって、ピンチにおそわれることとなる。そして、ついに大正元年十一月三日に倒産してしまった。


第48図 ゐのくち式渦巻ポンプ(「明治村」展示)

 つまり、その翌日創設されたこの「ゐのくち式機械事務所」はポンプのほか、一般水力機械設計だけをおこない、製作および試験は、宇野沢組鉄工所に委託・外注し、営業は主に当時の貿易商社の代表たる合資会社高田商会機械部を通じて販売していたという。大正二年事務所を神田駿河台に移したが、緩漫ながらもポンプの売上げは確実に伸び、翌大正三年に第一次大戦が勃発すると、事業はかなり活気を呈してきたのである。同年、自家工場と水力機械実験所を府下北豊島郡(現荒川区)日暮里町元金杉に設立した。もと古綿の打直し工場であった建物を買取って改造したこの工場は、当初従業員二十名前後、機械台数九台という町工場であったといわれる。日暮里工場の新設で事務所もまた下谷根岸に引越したが、日暮里工場は、町工場とはいえ、当時の普通の町工場とちがって、親方まかせでなく、すべてが技術者中心であったという。しかも井口博士を中心に、大学の研究者たちとも密接な関係をとり、その知識をたえず吸収することに努めていたのである。このようにして、町工場に似合わず、いろいろの新型ポンプや大型ポンプが製造されている。大正四年には、水道用の口径二〇〇ミリの縦軸ポンプを台湾の台中市に、翌五年には小樽港築港の口径三八〇ミリ、二段揚水の六〇〇馬力ポンプ、これと同じ頃、東京三河島(現荒川区)汚水処理場の口径七六〇ミリ渦巻ポンプ三台、台東区浅草田町(現台東区)ポンプ場の口径一、一四〇ミリ渦巻ポンプ三台などを製造・納入している。これらのポンプは、当時の技術的水準に制約されて現在以上の大型ポンプになっているが、これを小さな町工場で製作、組立ててゆくのであり、製作期間も長く、たいてい二年以上かかっていた。

 第一次大戦を経過して、反動恐慌の勃発直後の大正九年五月、株式会社荏原製作所に改組、資本金は三〇〇万円になった。当初、社名は「株式会社ゐのくち式機械製作所」を考えたが、長たらしいので、工場(のちに本社)所在地たる地名「エバラ」をとったわけだが、製品名は「エハラ」と濁らない。またその設立目論見書では、これまでの「ゐのくち式ポンプおよび一般ポンプ」製造・販売のほかに、「水力タービン」、「ターボブロワ」(送風機の一種)などをあげている点も注目されよう。さらに工場用地として西品川(大崎駅付近)に敷地八、〇〇〇坪を求め、工場の建坪三五〇坪で、機械台数三七台、従業員は四六名という近代的なポンプ専門工場が生まれてくることとなった。


第49図 大正12年頃の荏原製作所

 このようにして完成した大崎新工場は、日暮里工場に比べれば、雲泥の相違があるとはいうものの、現在からみればお粗末というほかなかった。広い敷地の中に、一棟の工場の建物がぽつんとあるだけで、その工場(のちに第一工場となる)内部には、テーブル径六フィートの正面盤が二台、旋盤でも最大のもので床盤の長さ一六フィートのものが一台、さらに天井走行の五トンクレーン一台という設備にすぎなかった。

 しかし、営業内容は、次表の如く、関東大震災にもめげず好調であったが、内外ともにはげしい競争にさらされていたといえる。一方の国内の競争についてみると、もともと、ポンプと水車が同一原理による点に基因して荏原製作所が、工鉱業用ポンプと水道用ポンプで実績を保っていたのに反して、農業用ポンプの分野や、水車専門の同業他社と競争せざるをえなかったといえる。しかも大正十一年の大干魃もあって、「安価と堅牢」をモットーとした応急灌漑用の小型低揚程ポンプの製造に進出することとなった。他方で、外国製舶来品との競争もまた激烈であった。当時水道用ポンプではスイスのズルツア社製、農業用ポンプではイギリスのアレン社製のものが輸入ポンプの代表であった。結局、当時の農業部門における地主制の展開、耕地整理の進展も加わって、普通水利組合向けの農業用大型ポンプや、耕地整理組合向けの軸流ポンプが製造され、さらに関東大震災を契機に、大都市の浄水場向けの送水ポンプの国産化に、大きく寄与することとなったのである。なお、大正十年ごろから、従来アメリカのブロワ社製の多翼送風機が製造工場用および鉱山用に輸入されていたのに対し、低圧送風機の開発に着手、関東大震災後、大建築が増加するのにつれて、人工通風が必要となり、多翼送風機よりも効率のよいターボ式送風機の製造に着手していくのである(栗林岩雄『水と空気』、ダイヤモンド社『熱と誠』)。

第79表 荏原製作所大崎工場の売上高
年次 売上高 利益金 備考
千円 千円
大正10年 761 109
12  850 162 (大正13年 第2工場建設着手)
14  1,197 163
昭和2年 1,410 150

注)粟林岩雄『水と空気』。