日本光学の創立

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すでに明治末期までの、和田嘉衡の創設した東京計器製作所、藤井竜蔵・光蔵兄弟による藤井レンズ製造所、岩城滝次郎の系統をひく岩城ガラス製造所、さらに陸海軍造兵廠の光学兵器製造部の動きについてはふれた。

 ところで、大正三年七月、第一次大戦が勃発すると、従来ガラス材料を先進国よりの供給に仰いでいた光学材料は、たちまち輸入杜絶の状態に陥った。いうまでもなく、光学ガラスが条件付戦時禁制品であることは、平素からよく判っていたにもかかわらず、フランスを除く世界各国は、そのほとんどをドイツのショット工場に仰いでいたという。日本もその例に洩れず、たとえば藤井レンズ製造所よりの発注品(主にプリズム、クロン)をのせたドイツ船は輸送中東南アジアの中立港に待避して、工場の作業に差支えたといわれている。急遽、東京電気株式会社にフリント硝子の試験製作を依頼するとともに、市中の大型望遠鏡の買集めを行なったが、大型プリズムだけは入手できなかったといわれている。そして、これが打開策のため海軍当局と打合わせの上、藤井竜蔵は、イギリスの光学兵器の供給を請負い、それを契機として、光学ガラスを入手せんと至急渡英することとなるのである(藤井竜蔵『光学回顧録』)。

 これと併行して、東京計器の和田嘉衡は、三菱合資社長の岩崎小弥太および近藤滋弥らに対して、「本邦、光学工業の独立のため、此のさい斯業の整理統合をおこない、目下、日本で製作し得ざる諸機械器具の製造を創始するとともに、大いに製造品目の整理と、工場の大拡張とを期すべく、一の光学工業大会社設立」(『日本光学工業株式会社二十五年史』)をうながしたのである。さらに、戦局の進展と光学工業の特殊性もあったが、たまたま海軍の八八艦隊建艦計画も立案されるに及んで、時の海軍次官財部彪中将の斡旋もあり、大正六年七月二十五日資本金二〇〇万円の日本光学工業株式会社が創立された。

 このようにして創立された日本光学が発足までの光学兵器の製造状況は上表の通りであるが、本邦における高級光学機械の発端は、大正五年の東京計器での測距儀の製作成功にあったという。さらに、前述した八八艦隊建造計画には潜水艦の建造が含まれ、それを三菱神戸造船所(現在、三菱重工業)に委嘱することとなったが、神戸造船所では早速イギリスのヴィッカース社との技術提携により設計にとりかかったものの、潜水艦の眼ともいうべき潜望鏡の入手に大きな障害がおこったのである(『三菱重工業株式会社史』、日本光学工業株式会社『五十年の歩み』)。

第80表 日本光学創立以前の光学兵器の製造状況
計画年月 製造品名 大正6年12月迄の製造量
大正3年2月 艦艇用 4年式1メートル半測距儀 4
  3年9月 戦艦・巡洋艦用 Z型照準望遠鏡 146
同上受託 フランス駆逐艦用 12
  5年9月 軍艦山城・伊勢・日向用 5年式4メートル半測距儀 4
  5年12月 軍艦 日向用 5年式6メートル測距儀 3
  6年2月 一般艦艇用 L型照準望遠鏡 339
同上受託 イタリヤ駆逐艦用 48
  6年12月 艦船用 5年式 重2メートル半測距儀 6

注)『日本光学工業株式会社二十五年史』による。

 けれども、潜望鏡の研究は、すでに海軍造兵廠製造部の安東良大尉および近藤徹技師によって設計試作されていたとはいえ、実用段階には程遠い現状であった。結局海軍では三菱合資会社社長岩崎小弥太に対外交渉についての協力を要請はしたものの、民間貿易では潜望鏡入手の見通しはつかず、最後に潜望鏡国産化の問題がクローズアップされてきたのである。

 しかし、東京計器・藤井レンズ・岩城硝子の三社を統合して、あらたに強力な光学工業会社をつくろうとすることは、もちろん容易なことではなかった。

 かくて、日本光学工業株式会社は、大正六年八月十六日に小石川区(現文京区)東京計器製作所内の一部を買収して、機械その他の設備をひきつぎ、八月二十三日には、本所区(現江東区)菊川町岩城硝子製造所の一部を買収して、諸機械・諸設備をひきついで営業を開始した。本来なら、同時に藤井レンズも買収する予定であったが、評価が折合わず、それを後廻しとしたのである。東京計器社長の和田嘉衡が兼任で取締役社長となり、三菱合資会社を始め三菱各社から経営陣に参画している。その年の暮、十二月十三日に芝区(現港区)三田豊岡町の藤井レンズ製造所工場全部を買収、同月十七日には合併の目的で、藤井レンズにより東京光学工業株式会社(資本金一〇〇万円)を設立、暮も押し迫った十二月二十七日に、この豊岡工場を日本光学東京支店とし、その支配人に藤井光蔵を選んだのである。この間、日本光学の創業を待っていたかのように、陸海軍から多量の注文が発せられたが、その需要に応えるべく、すでに大正六年八月二十三日、新工場を府下荏原郡大井町に建設すべく、同町の安田浅次郎および金木嘉助両氏より、所有地四、六九五坪を坪一四円五〇銭にて、また九月二十五日には同町酒井峯氏より四九九坪を坪一六円にて買収、年内完成の予定で、木造鋸形平屋工場建設に着手したのである(『日本光学工業株式会社二十五年史』)。翌大正七年一月に、この新工場は完成、本店を大井町に移すとともに、東京計器内にあった諸設備一切をこの大井第一工場に移し、測距儀など大型光学機械の製作が始められた。ひきつづいて事業の拡大に備へ、大井第二工場の建設に着手、同じ四月中旬には完成、岩城硝子製造所の諸設備をここに移し、探照用反射鏡の製作が始められた。ところが、工場移転に伴い作業能率が低下し、ひいては会社全体の営業成績は不振になり、旧藤井レンズの東京支店の営業成績が順調にのびていたので、総合的には若干の株主配当ができたといわれている。そして、大正七年五月一日、東京光学工業株式会社を合併、合わせて資本金を三〇〇万円とした。


第50図 日本光学工業大井工場(『大井町誌』)


第51図 日本光学工業大井工場内部(反射鏡研磨工場)

 創立時以降の経営概況ならびに主要製品の変遷を表示してみたのが、前ページの二つの表であるが、いくつかの特徴が指摘できよう。

第81表 日本光学の経営概況(大正期)
年次 製品売上高 半製品棚卸高 純益金 前期繰越金 後期繰越金
大正6年 45,967 62,182 108,149 1,494 -1,122
(100) (100) (100) (100)
9  481,599 1,126,133 1,607,732 88,012 3,092 1,604
(1,047) (1,811) (1,487) (5,891)
612,064 1,306,245 1,918,309 169,690 1,604 5,295
(1,331) (2,110) (1,774) (11,358)
12  941,722 1,165,896 2,107,618 24,247 27,303 17,851
(2,049) (1,874) (1,949) (1,623)
573,745 1,240,679 1,814,424 -151,334 17,851 -176,483
(1,248) (1,995) (1,678) (―)
15  923,392 1,316,083 2,239,415 -39,295 -231,958 -271,253
(2,009) (2,116) (2,070) (―)
昭和元年 1,266,114 1,070,855 2,336,969 -6,156 -271,253 -277,410
(2,754) (1,722) (2,161) (―)

注)各期「営業報告書」より作成。
( )内は大正6年下期を100とする指数,-は赤字。

第82表 日本光学の主要製品の変遷
年次 主要製品名
大正6年 創立時,海軍用測距儀試作。
藤井レンズ買収で,稜鏡双眼鏡・照準望遠鏡・観測鏡等の設計製作継承。
大正9年 レンズ計算・一般設計・レンズ研究などにドイツ人技師を招く。
大正10年 海軍用の測距儀・望遠鏡・大型眼鏡の改良試作。
一般用光学器械の設計試作,各種顕微鏡・天体望遠鏡製造開始。
大正12年 陸軍用の要塞用,野砲用測遠機・パノラマ眼鏡・砲隊鏡試作。
大正14年 海軍用大型測距儀,大砲用・水雷用の方位盤・変距率盤・的針測定儀試作。
一般用20インチ天体望遠鏡試作。
大正15年 10糎・20糎・30糎などの回光通信機設計製造開始。

注) 『日本光学工業株式会社二十五年史』による。

 第一に、創業時を基準に製品売上高・半製品棚卸高の伸びをみてみると、ともに著増が目立つが、昭和元年下期を除けば半製品棚卸高の方が製品売上高を常に上回っている。おそらく技術水準に制約された検査合格率の減少と、後述するワシントン軍縮会議の結果生じた需要減少が原因かと思われる。

 第二は、第一次大戦終了後、ドイツとの技術交流が盛になると、その日本への技術導入をはかるため、藤井竜蔵取締役をドイツに派遣したのであるが、ドイツのカール=ツァイス社から日本光学に対して、技術提携ならびに共同事業計画の提案があったが、かれらの条件との懸隔が著しく、ついに交渉を打切らざるをえなかったのである。むしろ、ドイツ人技術者を招聘して、その指導の下に技術の向上をはかるほかに方法がなかった。そこで、藤井竜蔵が東奔西走した結果、大正九年一月七日以降、レンズ設計の権威マックス=ランゲ博士を皮切りに八名の技術者の来日・入社が実現した。

 第三は、曲折の末、大正十一年二月六日に調印されたワシントン軍縮会議の結果、八八艦隊建造計画は中止となり、陸海軍向けの軍事兵器の試作開始が実現したにもかかわらず、経営内容は悪化してゆくのである。

 さらに、関東大震災の発生は、大井本社をはじめとして、反射鏡焼鈍炉や光学硝子焼解炉に亀裂を生じさせたため、工場の諸設備が大打撃をうけた。その結果大井本社は十七日間、東京支店は二十五日間の作業中止に追いこまれ、営業状態も不振低調の一路を辿り、毎期無配を重ねなければならなかった。このため、本社を芝区(現港区)三田豊岡町に移し、東京支店を廃して芝工場と改称した。

 さらに、かかる経済的不況と経営不振が重なって深刻化するなかで大正十三年九月以降、大井工場の労働者たちは、日本労働総同盟ないしは、日本労働組合評議会に加入したため、大正十五年二月十八日から翌三月四日にかけて、三四三名の職工中、一六〇名ほどが、「タイムキーパー」設置反対、ならびに賃下げ復活反対をかかけてサボタージュに入ったことは注目されよう(青木虹二『日本労働運動史年表』第一巻)。