大正期の品川白煉瓦と品川工場の移転

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すでに、明治末期までに品川白煉瓦が耐火煉瓦の製造、その築造および装飾・建築煉瓦の製造、といった三つの部門に分化していった点はふれた通りである。それらは、相互況をみれば、瓦に関連し合い、補充しあっているが、それぞれは異なった景況の動きを示すことになる。つまり、耐火煉瓦製造の景況・鉄鋼業の発展に伴って注文の増加を示すのであって、たとえば、第一次大戦勃発後の大正四年後半期には、日本資本主義全般を通じて「各種工業ノ拡張、新設ニ伴ヒ耐火煉瓦ノ需要ハ益々増加シ……従来ノ設備ニテハ到底其供給完フスルコト能ハサルヲ以テ……諸般ノ設備ヲ拡張シテ大ニ生産力ノ増加ヲ計リ昼夜兼行シテ製造ニ全力ヲ尽ス」(品川白煉瓦株式会社「第二十六回報告」)状態になった。さらに大正六年後半には、製鋼事業に必要な「マグネサイト煉瓦」の製造が完成して、官営八幡製鉄所や、民間の鉄鋼業で好評を博したという。しかし、第一次大戦の終了後は「急激ノ変転ヲ来シ、就中製鉄・鉄鋼・製銅等ノ諸工業ハ甚シキ影響ヲ被リ事業ノ縮少若クハ休止ヲ為シタルモノアリテ為メニ当会社製品ノ需要モ亦多少ノ減退ヲ免レサリシ」(品川白煉瓦株式会社「第三十二回報告」)状態に立至ったのである。さらに、大正九年に入り反動恐慌に直面するや「財界未曽有ノ変調ノ為メニ耐火材料ヲ使用スル各種ノ工業界ハ就レモ皆多大ノ打撃ヲ被リ事業ノ縮少若クハ作業ノ中止」(同「第三十五回報告」)という最悪の状態に立至っている。さらに翌大正十年も後半期に移ると「海軍縮少ノ問題ハ我造船事業並ニ製鉄事業ニ一大打撃ヲ与ヘ其ノ結果耐火煉瓦ノ需要ヲ阻止スル」(同「第三十八回報告」)事態になるが、同時に他方で、装飾用ないしは建築用煉瓦については「軽量煉瓦」の専売特許の実現もあり、建築界の変化もあって、大口注文が殺到する。さらに関東大震災後には、帝都復興事業の進展と関連し合いながら、鋪道煉瓦の開発も重なって、漸次好転を示し始めるのである。

 この間の経営概況は、上の表の通りであり、大正七年が最高のピークを示すのであるが、同年四月には、品川白煉瓦株式会社として、明治末期の一・五倍にあたる三五〇万円の増資を実現する。そして、これと前後して、大正五年には、日本窒業株式会社の合併(のちの岡山第一工場)も実現されるのであるが、やはり、大正十年代末期に、不況の打開に全力をあげつつも「他日ノ活動ニ資センガ為メ専ラ力ヲ消極的方面ニ注ギ主トシテ経費ノ大節減並ニ製品原価ノ低下、注文品納期の短縮、品質ノ改良等ヲ目標トシ各工場ノ整理緊縮ニ向ケテ大努力ヲ試ミタ」(同「第四十七回報告」)のであり、合理化の推進を試み、職工数の削滅が実現してゆく。本社工場たる品川工場についての具体的検討は充分にできないけれども、大正十二年の関東大震災の被害は軽微ではあった(製品倉庫、仮乾燥室の二棟と煙突一基倒潰、ならびに港区赤坂にあった「建築煉瓦」販売所の一棟焼失)といわれ、さきの産業合理化の進展により、生産費削滅の目的で、本社工場の一部を地方工場に移してゆくこととなる。その結果、敷地六、二七〇坪、建物三五棟などを、時価五六万円の価格で三共株式会社に売却、さらに翌大正十四年前半期には御殿山耕地四〇〇余坪も「鉄道省用地」として、買収に応じている。さらに、大正十五年前半期に本店を、品川町北品川宿三〇一番地より市内麹町区永楽町一丁目一番地(現在の千代田区丸ノ内一丁目)に移すが、ほぼ同じころ関西方面の工場は全能力を発揮することが可能となり、かかる工場整理と関連して「関東方面ノ工場ニ部分的労働争議ヲ惹起シ為メニ品川及湯本両工場ハ約二ケ月ニ渉リ製造ノ大部分ヲ中止スルノ余儀ナキ」(同「第五十回報告」)事態に直面してゆくのである。

第83表 品川白煉瓦の経営概況(大正期)
年次 製品売上高 増加比率 純益金 増加比率 前期繰越金 後期繰越金 職員 職工
大正元年 454,000 (100) 62,447 (100) 7,189 4,087 65 312
4  540,080 (119) 93,534 (150) 3,157 11,191 64 292
765,321 (169) 194,596 (312) 11,191 25,288 65 286
7  2,375,459 (523) 411,536 (659) 87,406 94,685 138 1,039
2,379,126 (524) 270,694 (433) 94,685 100,181 138 1,086
11  984,781 (217) 7,691 (12) 38,921 46,613 79 904
1,240,119 (273) 77,829 (125) 46,613 44,642 79 985
14  1,397,951 (304) 3,599 (6) 19,749 23,348 90 1,024
1,448,718 (319) 12,320 (20) 23,348 35,669 92 1,059
昭和2年 1,358,261 (299) 50,616 (81) 118,095 114,712 56 970
1,010,714 (223) 16,833 (27) 114,712 129,546 52 742

注) 1)各期「営業報告書」より作成。
2)円以下切捨。
3)職員には,事務や技術員を含む。
4)職工には,鉱夫や学校参加を含む。

 同じころ、大正十五年七月二十二日から三十日にかけて、関西の大阪市浪花区小田町にあった品川白煉瓦大阪支店の煉瓦工八名(大阪一般労働社組合に所属か)が解雇されてから、「解雇手当」と「予告手当」の支給を要求、それを実現させたことがあり、さらに、同年十月十八日から翌十一月十三日にかけての二七日間東京品川工場(五七名中の五一名)では待遇改善をめぐる要求が提出されてゆくのである(青木虹二『日本労働運動史年表』第一巻、内務省社会局労働部『大正十五年労働運動年報』)。さらに、翌昭和二年十月には、関東合同労働組合品川煉瓦工組合に属する品川工場職工四九名全体が「転勤反対」の理由で四十一日にわたって争議を続行していったのである。福島県(いわき市)湯本工場でも職工二二〇名全員が「解雇者ノ復職」をめぐって、六〇日にわたる争議を継続した点も留意しておこう(内務省社会局労働部『昭和二年労働運動年報』)。

 ともあれ、大正末期以降の産業合理化の進展による「転勤反対」を理由に、品川工場では長期の争議が続行され、ついに昭和四年前半期には、「旧品川残工場ハ之ヲ川崎市ニ新設移転」という事態に立ち至るのである(同「第五十三回報告」)。

 つまり品川区域内における工場が、不況過程のなかでより生産性の高い新工場へ移転され、いわば、品川区域内から他地方へ移転してゆくケースとしては注目すべき経過を示すものといえよう。