三共株式会社の設立と内国製薬

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大正二年三月一日、資本金一〇万円の三共株式会社が創立された。塩原又策の考えは、個人的経営をすてて、新しく一大化学工業会社をおこし、同じく医療品および工業薬品ならびにその売買をいとなむ三共合資会社を合併しようとしたのである。初代社長には高峰譲吉、専務取締役に塩原又策がなり、鳥居徳兵衛らが経営に参画しほか、広く財界・薬業界・学界からの応援を求めたという。同二十一日には、三共合資会社の資本を八五万円に評価して、三共株式会社に合併、資本金を九五万円とした。さらに、同年六月十二日には、公称資本金を二〇〇万円とした。他産業と同じく第一次大戦勃発の結果、好影響をうけ始めたのは、大正四年下半期ごろからであったが、ドイツからの輸入杜絶により、染料や医薬品は深刻な影響をうけたといってよい。たとえば、薬問屋の並ぶ大阪(東区)道修町では、第一次大戦勃発直後の八月初旬、一ポンド一〇円前後の白檀油が一五円から二〇円に、一オンス三円五〇銭前後のサントニンが四円七、八〇銭から六円台に、一〇〇ポンド四、五円の重曹が一六、七円から二〇円にも暴騰したという。政府はその八日に「戦時医薬品輸出取締省令」を施行して、一部薬品を輸出許可制とし、内地製薬業の助成を奨励してゆくのである。十月下旬からは、鳥井徳兵衛・友田嘉兵衛・田辺元三郎・小西新兵衛・塩原又策ら東西の薬業者が連名で内務大臣に薬業調査会の設置を建言してゆく。かくて、内務省は大正三年十二月五日に「臨時薬業調査会」を、また農商務省はこれより早く十一月十日に「化学工業調査会」を設置、調査委員を委嘱している。この両調査会の決議にもとづいて、大正四年五月二十九日開会の第三十六臨時帝国議会に上程、翌六月十九日に公布されたのが「染料医薬品製造奨励法」である(『三共六十年史』、『商工政策史』第二十巻)。この奨励法にもとづく保護会社として、内国製薬会社が、大正四年十一月二十二日三共株式会社内に設置されてゆくこととなるが、その出資株数の九五%が三共であったがその点は改めて、のちにふれることとしたい。


第52図 目黒川沿いの三共株式会社品川工場
(昭和47年,上空より)

 ところで、大正三年七月、三共の子会社ともいうべき資本金一〇万円の泰昌製薬を室町本店内に設立した。会社創立の趣旨は、医薬と家庭薬の区別が次第に複雑となり、家庭薬の販売と新薬・新製剤の製造販売を主目的とする三共との営業目的が一致しなくなったためである。この発売品としては、タカヂアスターゼ主剤の胃腸薬「ゴルフ」およびアドレナリン主剤の眼薬「アドラ」がある。泰昌の名称が示すように、大陸方面へ輸出していたが、現在の「三共ヨウモト株式会社」に系譜がひきつがれている。なお、この年十一月には「タカヂアスターゼ」が品川工場で国産化されるようになった。同じころ、目黒川対岸の旧品川硝子製造所跡を買収して、ベークライト工場を開設している。また鈴木梅太郎の指導で清酒防腐剤サリチル酸の工業生産に成功しているが、翌大正四年十一月二十二日に、このサリチル酸工場に隣接して、さきの内国製薬の工場が創立され、石炭酸・アミノピリン・麻薬など輸入杜絶後の重要薬品の製造に着手した。

 翌大正五年三月六日には、東京製薬株式会社を合併、局方製剤部門を品川工場に移している。さらに同年末十一月には、同じ品川工場に化粧品研究所が新設され、香水・ベビーパウダーなどを製造した。大正六年には、芝(現港区)にあった村井商会経営の石鹸製造業を継承、現在の江東区亀戸町に姉妹会社ともいうべき資本金一〇〇万円の東京石鹸株式会社を設立、「オレンヂ」、「ベナン」、「ラベル」などの化粧石鹸を製造している。

 さて、ここで大正期の経営概況を示せば、上表の通りであって、一貫して着実な利益をあげている。ことに反動恐慌後の大正九年九月六日には内国製薬株式会社を合併、結局公称資本金は五六〇万に達してゆくが、その事業や工場をも継承し、モルヒネ・コカインなどの指定麻薬製造業者となってゆくのである。

第84表 三共の経営概況(大正期)
年次 払込資本金 償却高 利益金 増加比率
千円 千円 千円
大正2年 1,213 28 89 (100)
4  1,475 70 129 (145)
1,475 110 136 (153)
7  2,300 30 395 (444)
2,875 297 (334)
10  3,950 372 (418)
3,950 582 (654)
13  4,775 572 (643)
7,200 75 692 (776)

注)『三共六十年史』より作成。

 なお、ここで興味あるのは、社長高峰譲吉がアメリカから持帰った自動車・オートバイ・人造肥料・アルミ精錬など広く化学・機械工業に関連して、三共としては非常に意欲的に多角経営に取組んでいったことである。たとえば、品川工場にも関連するのが自動自転車(モーターサイクル)生産で、のちに昭和九年には国産化に成功して「陸王号」と命名販売されている。この他、鈴木梅太郎の研究による合成清酒の製造は、米騒動や反動恐慌期の産物ともいうべく、「米」の節約がそもそもの研究の出発点で、伊丹の醸造家小西新右衛門とも提携して、大正十年九月に資本金一〇万円の大和醸造試験所を設立、富士紡の和田豊治、三井鉱山の牧田環、理研の大河内正敏、高橋是清の息子で、前述した日本精工株式会社の社長でもあった高橋是賢などが参加出資している。また家庭常備品ともいうべき体温計の流れをくむ「柏木験温器」の製造にも半額出資をしてゆくのである(『三共六十年史』、『現代日本産業発達史ⅩⅣ、化学工業上』)。