明治四十四年十一月に設立された星製薬は、創立当初その公称資本金は五〇万円(払込は四分の一)であったが、大正二年には一〇〇万円、大正六年には二〇〇万円に、翌七年五〇〇万円、大正八年一、〇〇〇万円、大正十年二、〇〇〇万円に、そして大正十二年九月には五、〇〇〇万円と著しい急増を示している。まさに、幾何級数的といわれるゆえんであろう。経営概況も、上表に示す通りであるが、まず大正三年モルヒネ抽出に成功、さらに「アルカロイド」の製造に着手、草根木皮よりの有効性分としての結晶体を取り出したのである。さらに、細菌部を設けワクチン製造を開始している。また化粧品部をも設けていくのである。この点は、三共における場合と同じく多角的経営を内容としており、たとえば大正十三年前半期には、医薬アルカロイド製品一五種、同注射液四五種など含めて売薬、製剤およそ一五七種、さらに化粧品一一種、医療機械四種、絵具類三種、木材防腐剤四種といった工合であった。しかも、輸入原料に依存するのでなく、原料所有の確保に努め、大正六年には、南アメリカ、ペルーのパンパヤクに五〇〇町歩のコカ栽培農場の経営を、翌七年には、同じくペルーのツルマヨ地方に三〇万町歩余りの土地を購入、開拓経営に着手している。反動恐慌後の大正十一年には、台湾に一万二〇〇〇町歩の耕地を求め、本邦で初のキナ樹をインドネシネのジャワ島より移植栽培することに成功し、キナおよびコカの造林事業に着手してゆくのである(京谷大助『星とフオード』)。
年次 | 製品売上高 | 増加比率 | 純益金 | 増加比率 | 前期繰越金 | 後期繰越金 | |
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円 | 円 | 円 | 円 | ||||
明治45年 | 上 | 13,203 | (100) | 2,895 | (100) | ― | 2,116 |
大正元年 | 下 | 34,976 | (265) | 4,891 | (169) | 2,116 | 1,883 |
4 | 上 | 61,123 | (463) | 9,171 | (317) | 168 | 460 |
下 | 59,614 | (451) | 8,450 | (292) | 460 | (?) | |
7 | 上 | 461,313 | (3,494) | 253,522 | (8,757) | 55,719 | 60,242 |
下 | 818,182 | (6,197) | 471,255 | (16,278) | 60,242 | 91,088 | |
10 | 上 | 1,684,306 | (12,759) | 587,753 | (20,302) | 204,158 | 196,911 |
下 | 2,148,719 | (16,274) | 805,389 | (27,820) | 196,911 | 257,300 | |
13 | 上 | 2,946,908 | (22,320) | 1,046,170 | (36,200) | 67,603 | 140,773 |
下 | 3,284,164 | (24,880) | 1,005,033 | (34,766) | 294,445 | 332,479 |
注) 各期「営業報告書」より作成。
また、製品の販売組織も全国的に、大々的な広告宣伝を新聞紙上に試み、全国津々浦々の、各町村に少なくもひとつの特約店をおこうとしたのである。いまでいうチェーンストアであるが、特約店になるためには、最初二五円を払込ませ、星製薬はこの二五円分の薬を特約店に送ることにより、契約の効力が発生することとしたのである。この特約店の集約には県に元売捌所を設けて統轄し、郡・市区にも元売捌所を設けていったのである。しかも特約店の教育にも意を注ぎ、大崎工場の近くに、五〇〇名位を収容できる六棟の校舎と三〇〇名を収容できる講堂を建てた。これが、現在の星薬科大学の濫觴である。特約店関係者の妻女をも集め、女子だけの教育をも試みている。
さらに、大正四年ごろ、京橋(現中央区)交差点角の鉄筋四階建コンクリートを買収、七階に改造し、銀座・日本橋周辺では一番高い立派な建物を本店としたのである。関西財界の雄で銀行家の岩下清周の意見によったもので、清水組(現在の清水建設)に請負わせたという。新聞広告も大いに利用し、「ホシ胃腸薬」や「ホシチオール」の出ない日はなかったという。このようにして、全国三万の特約店を動員した結果、売上高は毎日一万円を下らないといわれ、地方によっては、その県の六割以上を星製薬の薬に依存していたという。「ホシ胃腸薬」だけで、全国で十日間に一、五〇〇万円の売上を示したこともあるという。
大崎工場も、近代的な模範工場として著名であり、大正八年ごろから、現在のエア・コンディショニングにもあたる工場内の「空気洗滌」を実施し、工場内に診療所や保育園も設置したという。福祉施設の充実にも留意し、給食制度や社宅設備、保養設備を実現させていくのである。
大正十年代に移ると、大正初年来の当時の後藤新平との関係で粗製モルヒネの一手販売を台湾専売局から獲得したが、他の製薬業者ないしは貿易商社から反対の声があがり、のちに、星がその渦中においこまれて阿片事怖が発生してくることになるのである(大山恵佐『星一評伝』)。