第一次大戦の勃発は、いうまでもなく欧米からの輸入を杜絶せしめたが、すでに明治末期以降外国製品を駆逐しつつあった日本ペイントの塗料製品は、ここに国内市場を支配してゆく好機に恵まれることになった(『日本ペイント株式会社五十年史』)。しかし、同時に、広くかかる塗料工業の発展に対応して亜鉛華需要が急増してゆくわけであって、その「製造業者も明治時代の日本ペイント製造株式会社の独占時代からようやく競争生産段階にはいることとなった」(『日本無機薬品工業史』)といわれる。つまり、大正四年九月には棚橋寅五郎製薬所が日本製錬株式会社(東京府南葛飾郡小松川町)に改組され、翌大正五年五月には、資本金一〇〇万円の日本金属株式会社(神戸市葺合区筒井町)が、まさに発展期に入る合資会社鈴木商店によって設立され、大正六年十月には日本塗料株式会社(東京府南葛飾郡大島町)が資本金二〇〇万円で設立されるといった状況であった。
たとえば、この時期の日本ペイントにおける亜鉛華の生産量は、第一次世界大戦勃発前の六倍から八倍に達したともいわれ、なお不足する状態であったという。また日本ペイントの製品は、中華民国政府印刷局やシャム海軍府からも注文をうけ、とくに当時世界塗料界の最高権威と称せられたイギリスのバーレル社にも亜鉛華を供給して非常な好評を博したといわれている(『日本無機薬品工業史』)。
それゆえ、日本ペイントとしては、大阪工場を大阪支店と改め、重ねて工場の拡張を行なったのみならず、当時福島県野沢町、埼玉県北足立郡大宮町(現在の大宮市)で亜鉛製錬を始めたが、需要においつけず、大正六年九月には三度増資を断行して、資本金は五〇〇万円となり、東京品川の工場も拡張を続けたという。そして、国内向けでも明治時代にひきつづいて、当時の陸海軍をはじめ、鉄道省・台湾総督府・南満洲鉄道株式会社などの指定工場となった(『日本ペイント株式会社五十年史』)。大正期を通じての経営概況は、上の表の通りであるが、大正七年前後からの伸展が著しい。まさに「最盛時にはゆうゆう四割を配当するなど、黄金時代」を現出させたといえよう。
年次 | 総売上高 | 増加比率 | 純益 | 増加比率 | 前期繰越金 | 後期繰越金 | |
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円 | 円 | 円 | 円 | ||||
明治45年 | 上 | 164,736 | (100) | 81,558 | (100) | 27,730 | 25,806 |
大正元年 | 下 | 176,503 | (107) | 96,506 | (118) | 25,806 | 32,837 |
4 | 上 | 183,416 | (111) | 115,630 | (142) | 38,508 | 40,794 |
下 | 196,948 | (120) | 139,117 | (171) | 40,794 | 47,045 | |
7 | 上 | 692,979 | (421) | 690,354 | (846) | 189,922 | 194,828 |
下 | 907,106 | (551) | 686,285 | (841) | 194,828 | 213,171 | |
10 | 上 | 409,585 | (249) | 251,219 | (308) | 100,073 | 100,490 |
下 | 527,853 | (320) | 301,631 | (370) | 100,490 | 129,876 | |
13 | 上 | 491,647 | (298) | 308,312 | (378) | 186,742 | 187,308 |
下 | 472,480 | (287) | 310,664 | (381) | 187,308 | 186,733 |
注) 各期「営業報告書」より作成。
しかし、反動恐慌の勃発は、塗料工業における貯蔵原料および製品価格の暴落、国内需要の停滞、為替相場の不利など、せっかく実現した輸出も中絶して悪条件が重なり、日本ペイントにも大打撃を与え、人員整理・債権整理など、思い切った整理が実行され、その結果経営の中心が大阪に移されることとなった。資本金五〇〇万円をもって、著しい進展をみせていた日本ペイントがうけた打撃もまた大きかったといえよう。さきの福島県野沢町および埼玉県大宮町の亜鉛・鉛の原鉱製煉工場の廃止をはじめとして、白鉛・酸化鉄工場も廃止され、さらに明治四十一年以降、三十余万円の資金を注入していた日本ペイント製品による塗装工事を請負って、満洲や中国山東省方面に進出していた塗装部と漆工部、それから二、三の下請工場も廃止、解約されることとなったのである。この結果、東京品川と大阪浦江の塗料顔料工場のみ残されることとなり、第二次大戦後の企業組織の基礎が形づくられたといわれている。関東大震災の被害も大きくなかったので、帝都復興事業の進展に大きく寄与することとなったが、大正十三年一月三十一日から翌二月一日にかけて、一三二名の職工により賃上要求がなされた点も見のがせない(青木虹二『日本労働運動史年表』第一巻)。