東京をはじめとする大都市への人口の集中は、日露戦争後とくに著しくなる。それは交通量の増大となって現われ、市内路面電車以上の大きい輸送単位と高速運転の新しい交通機関が必要とされるようになった。明治三十九年十月の鉄道国有化につづいて、明治四十二年十二月十六日から山手線・豊島線も電化され、烏森(現新橋)・品川・渋谷・新宿・池袋・田端・上野間に電車の運転が開始された。このときに、はじめてボギー車が四両登場し、運行本数は一五本、翌年ボギー車は一〇両となり、六月二十五日には烏森から有楽町まで延長されている。大正三年十二月十八日、待望の東京中央停車場が新築落成、東京駅と命名され、こえて、十二月二十日、東京駅開業に伴い呉服橋仮停車場は廃止され、新橋停車場は汐留と改称され、烏森停車場が新橋と改称された。東海道本線の起点たる東京駅開業とともに東京・高島町間に電車運転が始められ、新橋(現汐留)・横浜(現桜木町)間蒸気旅客列車の小運転は廃止された。ところが、この電車運転は、当初故障続出のため、原因の究明と修理に手間どり、あらためて大正四年五月十日から運転が再開されている(『日本国有鉄道百年史』第5巻)。いうまでもなく、この電車連絡には、高架線であることが必要とされていただけでなく、幹線と市内線とが分離されねばならず、客貨分離も当然に必要であった。頻繁・等速運転を前提とする市内用の電車線には、幹線と線路を共用することは、線路容量のうえからも不利であり、幹線用の長距離列車が介入すれば、等速運転は不可能となり、安全確保の上からみても問題が生ずることが予想された。このため、市街線は複線から、さらに列車別の四線ないし六線以上が必要となってくる。それゆえ、東京・品川間の本線は四線(ないしは六線)で、このうち二線は市内近郊循環線(その後山手線および京浜間運転の電車専用とする)、二線を遠距離旅客列車運転にあてることとしたのである。さきの電車運転開始にともない、明治四十二年十二月十六日に烏森・浜松町・田町の三駅が電車旅客駅として開設されることとなる(『日本国有鉄道百年史』第6巻)。
また山手線は大正三年十二月二十七日に旅客列車を廃止、電車および貨物列車用となり、翌四年二月には、品川・大崎間に電車専用線が、こえて大正七年十二月二十日には大崎・恵比寿間に電車専用線が開通、同時に品川・大崎間に四線が開通している。この間大正五年三月一日から全列車が二両編成となり、さらにその年十一月十五日から中央線に二両編成三本が登場している。さらに、大正七年十二月には京浜線では一二分間隔として運転回数が増加してゆくのである。さらに、第一次大戦後の大正八年一月二十五日には、中央線中野・吉祥寺間が延長、三月一日には東京・万世橋間開通により、院線電車の運転系統に画期的な変化が生じた。それは、中央線と山手線とを直通運転し、いわゆる「の」の字型の運転系統がつくられたことである。当時、院線電車には上野・中野間の系統と東京・桜木町間(大正四年八月十五日高島町・桜木町間延長)、中央線東京・吉祥寺間の系統があり、ほかに池袋・赤羽間(明治四十二年十二月十六日運転開始)の系統があった。しかもこのころから、後に表示するように、院線電車の編成両数は増加しはじめる。大正八年三月十六日から京浜線には四両編成が、大正九年四月一日からは山手線にも三両編成が、そして中央線電車は全部二両編成となった。中央線はまもなく三両編成となり、大正十一年までに四両編成が実現している。さらに、平常時一〇~一二分間隔の電車運転に、「不定期」と称していた編成が挿入されて、通勤時には五~六分間隔の頻繁運転が実現してゆくのである。最近のラッシュ運転なり、一〇両編成の快速電車と比べていただきたい。このようにして、東京を中心とする院線(大正九年から省線)電車の運転は、都市化現象が周辺地域に拡大するにともない、ますます運転区間の延長と車両編成の長大化、さらに頻繁運転の方向をたどることとなった(『日本国有鉄道百年史』第5巻)。