大正八年一月以降中央線・山手線の直通で、吉祥寺←→東京←→品川←→新宿←→上野間をいわゆる「の」の字型運転として実現していたが、中央線は、国分寺(大正十一年十一月二十日)、国立(昭和四年三月五日)、立川(同六月十五日)、浅川(現在の高尾、昭和五年十二月二十日)と、順次西へ西へと延長を重ね、そして昭和八年九月十五日から、東京・浅川間に急行電車の運転が開始されている。他方で、神田・上野間の高架線完成の結果、「の」の字型運転は大正十四年十一月一日をもって廃止され、ここに山手線の循環運転が実現し、中央線も東京駅折返し運転となった。京浜線も、「の」の字型運転の廃止にともなって、上野まで延長し、上野・桜木町間とした。東北線は昭和三年二月一日に、田端・赤羽間電車線が完成、さらに昭和七年九月一日には電車区間を大宮まで延長し、蒲田・大宮間を直通運転としたのである。別表で、これら省線電車の運行状況の概括を示したけれども、山手線循環の完成に示されるように、関東大震災による打撃にもかかわらず、大正末期から昭和初期に輸送力の飛躍的な発展がみられ、大体同じ時期に、現在の輸送系統の原型ができ上がったものと考えられよう。なお、かかる当時の省(院)線電車の発達にともなって、検査・修繕の必要もあり、品川電車庫が、明治四十二年十二月以降大きな役割を果たしたことも忘れてはなるまい(『日本国有鉄道百年史』第8巻)。
中央本線
明治37.8.21 甲武鉄道株式会社飯田町・中野間列車線を電化して電車運転開始,飯田町・新宿間複線,新宿・中野間単線
明治37.12.31 飯田町・御茶ノ水間複線,電車専用
明治39.4 新宿・大久保間複線
明治39.9 大久保・中野間複線
明治41.4.19 御茶ノ水・昌平橋間複線,電車専用
明治45.4.1 昌平橋を廃止,万世橋まで延長
大正8.1.25 中野・吉祥寺間(複線)を電化,電車・列車の併行運転開始
大正8.3.1 東京・万世橋間電車専用複線開通,中央本線の起点を東京と改める
山手線
明治42.12.16 品川・田端間,池袋・赤羽間,いずれも列車線を電化併用運転開始
大正3.12.27 旅客列車を廃止,電車および貨物列車用となる
大正4.2 品川・大崎間電車専用線開通
大正7.12.20 大崎・恵比寿間電車専用線開通
東北本線
明治42.12.16 上野・田端間既設線に並行し電車線を使用開始,上野・日暮里間単線,日暮里・田端間複線
明治45.7.11 鴬谷・日暮里間複線開通
東海道本線
明治42.12.16 既設東海道本線に並行して烏森・品川間複線で新電車線開線
明治43.6.25 烏森・有楽町間電車運転延長(複線)
明治43.9.15 有楽町・呉服橋間電車運転延長(複線)
大正3.12.20 呉服橋を閉鎖,東京を開業,品川・高島町間既設線に並行ならびに交叉して新電車線開通,東京・高島町間となる
大正3.12.26 事故頻出のため品川・高島町間一時運転休止
大正4.5.10 品川・高島町間復旧
大正4.8.15 横浜(高島町廃止)・桜木町(横浜を改称)間単線で専用運転開始
中央線 | 山手線 | 京浜・東北線 | 備考 | ||||||||||||
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編成車両数 | 開始時 | 明治39年①―11 | 明治42年①―15 | 大正3年②―9 | ○の数字は編成両数その他の数字は組数,※は不定期,混は混雑時,閑は閑散時,平は平常時を示す。 | ||||||||||
大正9年 | ②―36 | (うち22山手直通) | ②~24 | 定期 | ④―2 ③―8 | 定期 | |||||||||
③―3 ②―2※ | ③―4 | ※ | ④―4 | ※ | |||||||||||
昭和7年 | ⑥~⑦ | 混 | ④~⑥ | 混 | ⑦~⑧ | 混 | |||||||||
③~② | 閑 | ②~③~④ | 閑 | ④~⑤ | 閑 | ||||||||||
運転間隔 | 〔東京~中野〕 | 分 | 〔中野~高円寺〕 | 分 | 〔品川~池袋~田端〕 | 分 | 〔池袋~赤羽〕 | 分 | 〔呉服橋(東京)~品川〕 | 分 | 〔品川~蒲田〕 | 分 | |||
開始時 | 混 | 6.0 | 36 | 15.0 | 30.6 | 15.0 | 15.0 | ||||||||
平 | 6.0 | 36 | 15.0 | 30.0 | 15.0 | 15.0 | |||||||||
大正9年 | 混 | 6.0 | 36 | 4.5 | 10.0 | 10.7 | 10.7 | ||||||||
平 | 6.0 | 36 | 6.0 | 30.0 | 12.0 | 12.0 | |||||||||
昭和7年 | 混 | 2.4 | 2.8 | 4.0 | 4.0 | 2.0 | 4.0 | ||||||||
平 | 4.0 | 5.3 | 5.0 | 8.0 | 2.2 | 4.0 | |||||||||
表定時分 | 分 | 分 | 分 | ||||||||||||
創始 | 烏森~新宿~上野28.0キロ15駅 | 64.0 | |||||||||||||
大正9年 | 東京~吉祥寺22.5キロ17駅 | 56.0 | 東京~桜木町30.8キロ14駅 | 51.0 | |||||||||||
昭和元年 | 東京~国分寺31.4キロ24駅 | 60.3 | 東京~品川~新宿~東京34.5キロ28駅 | 68.0 | 〃 | 45.3 | |||||||||
5年 | 〃 | 52.4 | 〃 | 64.0 | 〃 | 43.1 | |||||||||
11年 | 〃 | 52.4 | 〃 | 64.0 | 〃 | 42.1 |
注)『日本国有鉄道百年史』第8巻による。
ところで、明治四十二年十二月十六日以降の新橋・品川間における四線(ないしは六線)工事の改良計画、ならびに明治四十四年に着手された品川駅の拡張工事は、当区域内の町村についてもいろいろな影響を与えたことは想像にかたくない。とくに、品川駅の大拡張工事は、田町・品川間沿線地先の海面約八万余坪(約二六万平方メートル)を埋立てる必要を生じ、そのため約一九万立方坪(約一一四万立方メートル)の土砂を大井町駅に近い浅間台(せんげんだい)(現在の南品川五丁目および六丁目の大部分)の丘陵から採取、このためには、浅間台から品川駅地先に複線の軽便鉄道を仮設し、五両の機関車と二〇〇両の土砂運搬車とを使って、大正三年春までに竣工させている。そして大正五年五月七日に品川新駅を開設したのである。なお、これより先大井・大崎間の連絡線の必要がなくなり、大正五年四月十五日に営業を廃止した。この浅間台付近の切取土砂の残部は、大井町駅と六郷川橋梁間の増設線路の築堤などの用地造成にあてている。さらに、浅間台付近から大崎駅にわたる面積約八万坪の田畑原野を買収し、そこの低地部分を盛立てるために使い、ここが、のちの大井工場の敷地となってゆくのである(『日本国有鉄道百年史』第6巻)。