京浜電気鉄道の展開

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日露戦争時の京浜間全通によって、京浜電鉄が東海道線と競争を重ねた結果、速度や発車回数の多いこと、さらに快適性において勝っていたのみならず、東京電鉄および横浜電鉄という東京・横浜両市間の電鉄会社とタイアップして共通切符を発売し、乗客の便を計ったこともあり、多数の乗客が国鉄利用から京浜電鉄利用にきりかえたといわれている。しかし、電化に伴い大正四年五月十日からの京浜線における院(省)線電車運転の再開は、私有鉄道の社線に巻き返しを与えることとなり、明治四十年には一五〇万人を数えた京浜間の社線直通利用客は、大正六年には三七万人にまで減少してしまった。しかしながら、本来京浜電鉄の展開は、当区域内の近代産業も含まれる京浜工業地帯の形成・展開と密接に関連しているのであって、とくに、重化学工業を中心とした京浜工業地帯の形成は、通勤に公共的交通手段を利用する可能性の高い成年男子労働者を労働力源としている点に、他の私有鉄道に比べて京浜電鉄は、一つの特質を示しているものと考えられる。それゆえ、日本鋼管をはじめとして鉄鋼・機械・造船・化学などの諸産業や区域内の諸産業が第一次大戦の勃発によって未曽有の好況がもたらされたため、大正九年には京浜電鉄も、安田財閥の資金的援助を背景に、一挙に一、五〇〇万円の増資を実現してゆくのである。また、大正六年末には品川で、東京市電と連絡運輸協定を結び、社線の市電乗入れが許可されている。だが、結局は院線品川駅付近で市電と連絡しようとし、前述したように、大正十四年三月に品川・高輪間の延長線を完成した結果、東京市内乗入れの実現をみたのである(中西健一『日本私有鉄道史研究』)。


第61図 京浜電鉄と市電の相互乗入れ当時の品川駅付近
(大正8年から昭和8年4月の間)