現在の東急の「生みの親」ともいうべき田園都市株式会社が呱々の声をあげたのは、大正七年九月二日、まさに米騒動もようやく収って第一次大戦終了の直前であった。ここでの「田園都市」とは、現在でこそ有名無実に近いが、簡単にいえば、「自然を多分にとりいれた都市」であり、「農村と都会とを折衷した田園趣味の豊かな街」のことである。いってみれば、明治末期以降の日本資本主義の独占化の進展のなかで、人口の増加と集中、そして住宅稠密の一途を辿っている東京市の郊外に、高燥肥沃・風光明媚な地をえらんで、近代的施設をほどこし、都会のもつ弊害から都会人を救おうというのがその目的であった。この設立計画に一番力をいれたのは、第一銀行頭取を長くつとめ、日本財界の巨頭ともいうべき渋沢栄一であったという。創立資本金五〇万円のこの会社の取締役社長は中野武営であるが、取締役には時計製造業の服部金太郎をはじめ、区域内の緒明造船所の系統を汲む緒明圭造がいた。ただちに事業の第一着手として土地買収が始められたものの洗足(大田区)方面の地価が高騰したため、大岡山(目黒区)・田園調布・玉川方面に重点をおいたという。そもそも、当初の計画としては、上記の土地合計四六万坪を求め、交通手段としては目黒蒲田電鉄株式会社を別に創立して、省線や市電との連絡を便利ならしめようとしたのである。電燈ガスの供給も直営事業とし、上水道は玉川水道株式会社に建設費を補助し、下水道・道路も完備せんとしていた。教育機関としては、折しも府立第八中学校(現在の都立小山台高校)の設置が、当時の平塚村小山に決定していたので好都合であった。
かくて、大正十二年に入って、田園調布区域八万坪の整地工事に着手したが、たまたま関東大震災が勃発、都心における大火災のさいは、かえって郊外が安住地であることを証明する結果となった。さらに、翌大正十三年に入ると、多摩川べりの高台地域約三万余坪をはじめ、大岡山地域約九万余坪への東京高等工業学校の移転(蔵前の旧敷地一万二千余坪と交換取得)、といった具合に反動恐慌後の不況下においても着々事業を進めたのである。