会社創立後七ヵ月にして、目黒・丸子多摩川間の目蒲電鉄には、田園都市会社の経営陣に加えて、武蔵野電鉄の郷誠之助、後に「東急コンツェルン」を背負ってたつ五島慶太らが加わっていた。なぜなら、そもそも田園都市会社の電鉄敷設経営には、かならずしも適任者に恵まれず、渋沢栄一は、服部時計店の服部金太郎と相談の末、生命保険業で成功した矢野恒太を推薦したが、矢野もまた関西の阪急電鉄で業績をあげていた小林一三を招聘せんとした。小林一三は関西を本拠としたため、ここに五島慶太が推挙される結果となったのである。このようにして目蒲電鉄が創立され、田園都市株式会社を合併して、さきの荏原電鉄の敷設免許を得、さらに目黒線(大崎町~碑衾間)の敷設権も獲得してゆくのである。すでにふれたように(二三三ページ、第54表)、明治四十一年五月八日に仮免許状を下付された武蔵電気鉄道も反動恐慌の影響で苦況にたち、蒲田支線(多摩川園~蒲田)を大正十一年七月十日、目蒲電鉄へ譲渡することとした。目蒲電鉄の創立に先立つこと約二ヵ月であった。武蔵電鉄自体は、大正十三年十月二十五日に、改めて資本金を五〇〇万円に増資、東京横浜電鉄株式会社と改称してゆくのである。そして、本社を目蒲電鉄と同じく、大崎町大字上大崎二三九番地に移したのである。これも、さきの大岡山の土地と交換取得した蔵前の土地の売却利益で目蒲電鉄系に武蔵電鉄の株式を買収し、結局五島慶太の統率下に組込まれた結果と考えられよう(中西健一『日本私有鉄道史研究』)。
さて、大正後期の反動恐慌以降、関東大震災をへ、昭和二年の金融恐慌という不況・恐慌の連続のなかで、池上電鉄・目蒲電鉄傘下の開業状況を示せば次のとおりである。