市街地信用組合の生成と発展

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もともと信用組合は、明治三十三年三月七日に公布された「産業組合法」によって発達してきた。しかし、日本資本主義の特質を反映して、「産業組合法」の制定自体が、官界・政界および地方の有力者の意識の所産であり、かつドイツの農業的産業組合の直輸入であって、いわば天降り的であったといわれている。自然発生的な産業組合は多くの場合、協同組合的特性以外のものが混在していたことも事実であった。さらにたとえば、内務大臣をかね、信用組合の熱心な推進者でもあった品川弥二郎の勧奨をうけた静岡県の掛川信用組合(明治二十五年七月八日創立)の場合にも、組合の中心となった土地の富裕者たちは、この信用組合を媒介として、その所有資金を高利で貸付けていたといわれている(『信用金庫史』)。

 だが、産業組合全体のなかで占める信用組合の比重は圧倒的に高いのであって、零細商工業者ないしは農民にとっては、銀行などの資金融通には恵まれなかったから、金利は比較的高くても、信用組合(および産業組合でも他種兼営のもの)にたよらざるをえなかったと考えられる。もちろん明治初年以降の庶民金融機関ともいうべき、高利貸・質屋・頼母子・無尽などにも大きく依存していたとも思われるし、これがのちに、信用組合へ吸収されていくことともなるのである。だが、かかる高利貸・質屋・頼母子・無尽などの下級金融機関ないしは、類似金融機関に対する監督は、明治末から大正初期に至っても当時の大蔵省には法令上の監督権がなく、実際は、警察・地方公共団体などと協力して、検査・取締をしていたにすぎず、全国的にみれば、野放し状態といってよく、放漫経営が横行していて、利用者に迷惑をおよぼす場合が多かったといえよう。

 このような歴史的状況のなかで、大正六年七月二十一日に、市街地信用組合制度が創設された。産業組合法の第三次改正によるものであって、「市又ハ主務大臣ノ指定スル市街地カ組合ノ区域ニ属スル信用組合ハ定款ノ定ムル所ニ依リ組合員ニ対シ其ノ産業若クハ経済ノ発達ニ必要ナル資金ノ為手形ノ割引ヲ為シ……組合ノ区域内ニ居住スル組合員外ノ者ノ貯金ヲ取扱フコトヲ得」ることとなったのである。ちなみに、「市街地信用組合」なる名称が、正式に法令上の呼称となったのは、戦時体制下の昭和十八年四月一日から市街地信用組合法が施行されてからのちのことである(『信用金庫史』)。

 この結果、第一に貯金範囲が拡大されて、組合員家族や公共団体、非営利の法人・団体などの貯金取扱も認められて、資金源が充実されるようになった。第二に、貸付用途も拡張されて、従来は、厳格に「産業資金」に限定していたのを「経済資金」にまで幅を拡げ、立替資金・災害救済、さらに都市におけるサラリーマンの住宅資金についても融通することとしたのである(『城南信用金庫史』)。

 さらに、第一次大戦勃発後東京府としては「産業組合奨励五ヵ年計画」をたて、「大企業の独占による富の分配の緩和、貧富の懸隔予防に加えて、無産者階級の生活難を救」おうとしたのである。これをうけて、当時の川越守男荏原郡長も、産業組合奨励に熱意を傾け、郡下各町村に産業組合の設立とその強化を勧奨して回ったといわれている。その成果ともいえるが、大正七年十二月には品川町に、産業組合中央会東京支会荏原郡部会が創立されている。そもそも産業組合は、一定地域に居住する組合員によって組織・運営されるのであって、農村における産業組合は、まさにこれに適応していたものといえよう。これに反して、都市の場合には、人口移動が激しく、地縁関係による結合性も弱く、零細な同業者間の競争もまた当然に存在する。産業組合ないしは信用組合設立のむずかしさがここにあったといえよう。

 当区域内に本店をもち、全国の信用金庫のなかでも高い地位を占める城南信用金庫の創立は、終戦直前の昭和二十年八月十日であったが、それに合併される各信用組合の一覧を示せば、第100表のとおりである。

 第100表 城南信用金庫の前身各信用組合
信用組合名 設立 事務所 組合長
創立時 合併時 (創立時) (合併時)
年 月
品川 大正11 5 6 品川町大字品川宿54 品川区北品川3-65 漆昌巌→金子正一→島本正一
大井 大正14・6・4 大井町4,149 品川区大井倉田町3,360 名和長憲→南部関蔵→西村菊次郎
大崎 大正8・7・9 大崎村大字下大崎107 品川区五反田2-372 立石知満→立石知満
荏原 大正13・6・16 荏原区平塚5-52-1 高橋勝蔵→鈴木兼五郎→鏑木小平次
大森 明治44・9・12 大森町463 大森区大森3-138 田中彦次郎→塩沢藤吉→平林作次郎→島田由兵衛
入新井 明治35・7・5 入新井村大字不入斗407 大森区入新井6-40 加納久宜→岩井和三郎→酒井熊次郎
馬込 大正10・7・23 馬込村844 大森区馬込町西3-2,456 加藤三郎→河原源一
池上 大正10・3・14 池上村大字下池上73 大森区池上本町306 小原厚→小原厚
蒲田 大正9・11・1 蒲田区本蒲田3-3-2 吉岡縫之助→森孫太郎→西山祐造
六郷 大正9・1・10 六郷村大字八幡塚992 蒲田区東六郷3-8-4 川田太郎左衛門→鈴木半兵衛→代田朝義
矢口 大正9・1・10 蒲田区安方町282 吉田相吉→瓜生謹之輔
羽田 大正9・12・14 蒲田区羽田1-1,104 村石亦作→村石亦作
碑衾 大正11・3・1 碑衾村大字碑文谷2,083 日黒区碑文谷2-2,087 角田光五郎→角田光五郎
駒沢 大正9・12・25 駒沢村大字上馬引沢741 世田谷区上馬町1-749 谷岡貫二→横溝文次
昭和4・8・15 砧村喜多見324 世田谷区成城町158 鈴木弥之助→鈴木弥之助

注)『城南信用金庫史』による。

 前述した大正六年の産業組合法第三次改正以前にすでに設立された前身組合としては、入新井・大森両組合がある。入新井信用組合の場合は、元千葉県一宮藩主で、鹿児島県知事を辞めた加納久宜の旧邸が大森にあったため、高利貸・質屋の弊害をうれえて、村の教育資金や勧業資金の不足を解決すべく自ら卒先して、信用組合を設立したという(『城南信用金庫史』)。このような、全国的にみても先進的な入新井信用組合は、組合事務の実際にも詳しく、かつて組合長加納久宜がイギリス留学時代に勉強してきた知識・経験による「大福帳」方式が、大崎信用組合をはじめ各信用組合へ継受されていったものと考えられる(小原鉄五郎『わが道ひと筋』)。以下、順次に区域内の各前身信用組合についてみてみよう。