大正期における大崎信用組合

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区域内で最古の経歴をもつ大崎信用組合の創立の動機は、第一次大戦期の物価騰貴であった。全国に拡がった米騒動がその前提になっていることはいうまでもない。その米騒動に強い衝撃をうけた人々が、消費組合をつくろうとしたのである。まだ池上線は開通してなかったが、近代的な諸産業、たとえば、大崎周辺には明電舎・日本精工・藤倉合名・園池製作所・品川製作所・星製薬大崎工場などが蝟集し、五反田界隈にも、次第に商人がふえたが、逆に消費組合をつくると商人の営業妨害になると喧伝されたという。それゆえ「安い資金を提供して、掛け仕入れだと高くつくところを、現金仕入れで物を安く買える」信用組合をつくるべきだとの結論に達した。大崎町長の立石知満を発起人総代として小原鉄五郎ら一八〇人が大崎信用組合を創立してゆくのである。事務所は町長の応接間の四畳半で信用組合の使う用紙から炭火に至る消耗品から部屋代まで、全部官費の無料であったというから面白い。当初は、信用組合役員の理事・監事も無報酬であったが、台帳なども、自分で原紙を切って印刷したという。別表のように大正期の組合員の構成も、商業が急増を示すが、農業が漸減、工業も漸増を示している。業務状況も、借入金はないものの剰余金の対出資金比率は関東大震災後は一〇%をこえ、貸出超過を示しているのである。大正十一年夏には、大崎信用組合独自の事務所をもつが、当時五反田付近には、広部銀行しかなく、貯金勧誘も義理で「お賽銭みたいに軒並み一〇銭」だったという。幸いにも、関東大震災も災害はまぬかれたが、その直後から五反田・大崎に限らず被災者が流入し、郡下の人口が一挙に膨脹したという。かかる人口急増と商工業の発展は、商店街の発展をもたらし、大崎信用組合は思い切って貸付金をふやすことができたという(小原鉄五郎『わが道ひと筋』)。もちろん、関東大震災後の不況到来は、貸付増大と貯金減少となってくるのであるが、かかる信用組合も含めて、広く産業組合全体を金融面から支援するために、親銀行ともいうべき産業組合中央金庫(資本金は三、〇〇〇万円で半額政府出資)が大正十三年三月一日から業務を開始した。そして各信用組合にも出資することとなった(『信用金庫史』)。

 第103表 大正期における大崎信用組合の構成
項目 組合員数 出資口数
年度 農業 工業 商業 その他 農業 工業 商業 その他
大正8年度 24 35 132 42 233 204 171 705 256 1,336
9   28 65 215 52 364 221 105 356 157 649
10   31 105 356 157 649 368 584 2,440 1,091 4,483
11   16 117 385 295 813 65 718 2,905 2,414 6,102
12   10 141 572 290 1,013 27 575 2,658 1,655 4,915
13   17 174 594 318 1,103 47 723 2,921 1,814 5,505
14   18 188 612 327 1,145 103 754 3,045 1,975 5,877
15   18 177 635 330 1,160 66 678 3,268 1,980 5,992

注) 各年度「事業報告書」より作成。

 第104表 大正期における大崎信用組合の業況
項目 出資金 貯金総額 剰余金 貸出金 借入金 C/A D/B E/B+E
年度 (A) (B) (C) (D) (E)
大正9年度 55,050 42,964 57,796 71,100 0 104,9 165.4
10   134,490 152,466 7,232 179,810 0 5.3 117.9
11   183,060 278,205 17,781 363,750 0 9.7 130.7
12   294,900 526,256 28,690 717,155 0 9.7 136.2
13   330,300 560,386 51,027 874,165 0 15.4 159.9
14   352,620 751,104 58,307 1,032,211 0 16.4 137.4
15   359,520 969,613 62,715 1,129,911 0 17.4 116.5

注) 各年度「事業報告書」より作成。