日露戦争後の東京

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明治三十七・八年の日露戦争はかつて日本が経験したことのない大戦争であった。戦費一七億円、動員兵力一一〇万、うち戦死者一〇万七〇〇〇人、傷病者四〇万であった。これらはすべて国民の肩に重くのしかかった。戦費の大部分は外国公債と内国債、それに二回にわたる非常特別税による増税でまかなわれた。内国債は強制割当てされ、非常特別税では地租・営業税・所得税などが五割から二〇割増徴され、相続税・織物消費税・通行税などが新設され、さらに塩専売制も実施された。

 多くの家庭が働き手を軍隊にとられ、重税を負担した。そればかりでなく、消費者物価は急騰し、この面からも国民を苦しめた。戦勝の声も空しく、国民生活への戦争の重圧は国民、とくに都市住民に不満と怒りを蓄積させていった。

 この国民の不満と怒りはポーツマス条約調印の日の明治三十八年九月五日、日比谷公園での講和条約反対国民大会をきっかけに爆発し、民衆は政府系新聞社・警察署・交番・内務大臣官邸などを襲撃、さらに電車などを焼打ちするという暴動となった。いわゆる日比谷焼打事件である。暴動は七日まで続き、二警察署・六分署・二二六交番と一五台の電車が焼打ちされた。この事件で民衆に五六〇人の、警察官・消防官・軍隊に五〇二人の死傷者が出た。品川警察署管内でも死傷者が各四名づつあった。

 政府は翌九月六日東京市内と荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾五郡に戒厳令を施行し、七日にいたってようやく民衆の暴動を鎮めることができた。荏原郡には第一師団の軍隊が出動し、大崎・品川には検問所が設けられた。これらの検問所で検問されたものは全都で五万九〇〇〇人を数えた。

 このとき検挙され、予審をうけたものは都市の雑業層(人足・車夫・雇人など)・職人・職工などが多く、民衆暴動への参加者がこうした階層の人びとを主力としていたことを示していた。あたかも東京は、前近代的な職人社会が崩壊しつつあり、加えて資本主義の発達にともなう工場労働者=職工が増加し、また農村で土地を失い、都市に流入する人口が増加していた。これらの諸階層の生活は不安定で、ちょっとした家族の不幸が一家をスラムの世界に落しいれる結果にもなりかねない状態であった。こうした不安定の階層の不満が、日比谷焼打事件の原動力となっていったのである。

 またこの時期になると中等学校以上の教育もしだいに普及し、都市には教師・技術者・弁護士・新聞雑誌記者などの新中間層もふえ、新しい一つの社会層を形成してきた。この階層の人びとの間には、自由主義的風潮がひろまり、藩閥官僚や軍閥の支配を批判する声が高まってきていた。また藩閥官僚と妥協して、議会に多数を占め、東京市会を牛耳っていた政友会に対する反対の空気がつくり出されつつあった。

 都市民衆とこれらの新中間層の自由主義的な反藩閥、反政友会の潮流が結びついたとき、そこに日比谷暴動を最初とし、大正七年の米騒動にいたるまで、ことあるごとに都市民衆が暴動をもって起ちあがる傾向を生みだしていったのである。