都市の民衆騒擾と品川区域

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日比谷焼打事件後、東京の民衆はことあるごとに集会を開き、ある場合には暴動化した。明治三十九年には東京電車鉄道・東京市街鉄道・東京電気鉄道の三社が、現行三銭の運賃を五銭に値上げすることを計画すると、市民大会を開いて反対を決議し、さらに反対デモは市庁・電鉄会社に押しかけ、電車を襲うなど暴動を起こした。

 また四十一年には酒造税・砂糖消費税・石油消費税の新設に反対して、東京の中・小商人、ブルジョアジーの組織する東京実業組合は、大会を開いて増税反対と、軍備偏重の財政政策を攻撃し、大きく運動をもりあげた。こうしたなかで商業会議所も大会を開いて対総選挙宣言を発表し、増税賛成議員を支持しないことを決議した。このように日露戦争後の民衆運動はたんに下層社会の勤労者だけでなく、ブルジョアジーも含めて、政府の軍備拡張・増税政策を攻撃するにいたったのであった。

 大正元年から二年にかけて、有名な大正政変、第一次護憲運動が起こった。国家財政の行きづまりのなかで、時の西園寺内閣は行政整理に取りくまざるをえなくなったが、これに非協力な陸軍は、逆に二個師団増設の軍備拡張要求を提出し、西園寺内閣を倒した。しかもそのあと内閣を組織したのが長州官僚閥の桂太郎であったため、民衆の怒りは爆発した。かれらは「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに専制体制を攻撃し、必死にきりぬけようとする桂内閣を民衆勢力は追いつめ、ついに数万の民衆が議会を包囲するなかで桂内閣は辞職するにいたった。議会開設以来民衆の力が内閣を打倒したのは、これが最初であった。この時も民衆は街頭におし出して暴動化した。

 そのあとの山本権兵衛内閣もわずか一年で海軍高官の収賄事件=シーメンス事件で民衆の攻撃をうけて倒れた。こうしてこの時期は民衆が一つの政治勢力として登場し、政治過程に大きな影響を及ぼすにいたった。

 以上の民衆の動向は、東京市内に顕著であったが、郡部にも同じ傾向が生まれつつあった。品川区域でもこの時期には生活問題あるいは政治問題で町民大会、あるいは荏原郡民大会が開かれている。東京朝日新聞などの記事によってこれらを概観しておこう。

 大正元年十月には、品川御殿山に隣接の海軍用水地問題が起こった。従来品川沖碇泊の艦船に水を供給する目的のこの用水地の余水は、品川本宿・南品川一~三丁目・猟師町・利田新地など一万五〇〇〇の町民に利用されてきた。ところが海軍は軍艦碇泊減少を理由に、これを内務省に移管し、払下地とした。品川町当局は町会を開いて東京府に払下げを申請したが、申請許可がおりないうちに、同用地は鉄道院によって老松を伐採し、その土は品川埋立地に搬出することが確定した。これを知った町民は、水が涸れて町民生死にかかわるものとして、東京府・内務省・鉄道院に老松伐採の中止を要請したが、府・省・院とも冷談な態度に終始した。こうした官僚の態度に、町民はもはや尋常の手段では目的を達することができないとして、十月十四日北馬場の娯楽館に町民大会を開いている。この問題はその後も議会への請願活動などねばり強い活動が展開され、ついに町民の要求が受けいれられる結果となった。

 これと前後して、さきに述べた桂官僚内閣の出現にともなう憲政擁護運動のなかで、大正二年二月一日、閥族打破・憲政擁護の荏原郡民大会が清華園で開かれた。大会には郡民一、五〇〇余名が参会し、高木正年・漆昌巌両代議士・郡部選出府会議員・各町村長も出席し、桂内閣の非立憲性、藩閥官僚・軍部の横暴を激しく攻撃するとともに、「憲政擁護のために議会解散の場合には誓って現代議士(=憲政擁護派議員)を選出すべき」ことを決議している。

 さらに翌大正三年一月以降には、商工業者を中心に営業税・織物消費税・通行税の三悪税廃止の運動が全国的に展開された。このなかで二月六日には再び荏原郡民大会が開かれ、郡民一、八〇〇余名が参加し、営業税廃止を決議するとともに、悪税廃止に賛成しない代議士は次の選挙において再選させないことを誓ったのであった。

 これらのいくつかの事例からも察せられるように日露戦争後から大正前期には、荏原郡下の町民の政治的自覚もしだいに高まりつつあり、暴動化こそしなかったが、生活問題・政治問題をとらえて郡民大会・町民大会などがしばしば開催されたのであった。


第65図 要津橋(ようじんばし)際にあった東京府荏原郡役所

 こうした都市民衆運動の最大の爆発が大正七年の米騷動であった。大正三年に始まった第一次世界大戦は日本経済にかつてない好況をもたらし、多くの成金を生みだした。しかし他方では諸物価の高騰=インフレを招き、都市の勤労階級は賃金の増大にもかかわらずかえって生活は苦しくなった。とくに米価の騰貴は都市民の生活を圧迫した。労働者は賃上げを獲得するためにストライキをもってたちあがった。しかし米価の急騰は激しく、とくに大正七年にはシベリア出兵をあてこんだ米穀商の米買占めによって米価は急騰した。こうしてこの年七月二十三日富山県魚津町の主婦の米の県外移出反対の集会にはじまった民衆行動は、八月三日以降米値下げ強要や打毀(うちこわし)をともなう騒動に発展し、八月十日の京都、名古屋の大都市での騒擾をきっかけに、全国的な規模での米騒動に発展した。騒動は青森・岩手・秋田・沖縄の四県を除くすべての府県をまきこみ、暴動発生の地点は二八市、一五三町、一七七村、参加人員は七〇万人をはるかに上まわったと推定されている。警察機能は麻痺し、政府は軍隊を出動させて鎮圧につとめた。

 東京での米騒動は、八月十二日から不穏の動きが始まり、翌十三日には暴動に発展し、十四、十五日、十六日と暴動が続き、ようやく十七日以降しだいに平静に復した。この間警視庁は、十三日に三多摩を除く府下の警察署に非常召集を発して、各所轄管内を警戒せしめ、八月十五日にいたってついに近衛・第一両師団を出動させて鎮圧につとめたのであった。

 品川区域内においては暴動の発生こそなかったが、住民の動揺は大きく、市内の暴動に参加したものは多数あったと推定される。現在判明している起訴されたもののなかに、大崎町・品川町の住民三名が存在しているのがそれを証拠だてている。三名の被起訴者はいずれも騒擾率先助勢の罪に問われ、懲役八ヵ月と懲役四ヵ月(執行猶予三年)の判決を受けた。

 米騒動は都市民衆の生活権擁護の自然発生的な闘争であったが、これを最後に民衆の運動は労働運動・婦人運動・学生運動などのそれぞれの社会運動として展開されていくことになるが、これについては次節に述べる通りである。