日露戦争後の民衆運動の活発化は、政界にも大きな影響を及ぼした。選挙権ももたず、今までまったく政治世界の外にあった民衆が、その不満と怒りを爆発させて政治的力量を発揮しはじめたとき、これに注目したのは、幕末・明治初年に生まれ、日本の対外膨脹期に青年期を経て社会活動に入った比較的若い政治家のグループであった。かれらは、藩閥官僚勢力と妥協して勢力を拡大してきた政友会にたいする反対姿勢で共通し、憲政本党でも非主流に属する政治家、あるいは弁護士・新聞雑誌記者などからなっていた。
品川出身の高木正年は、この政治グループに属する有力政治家の一人であった。高木正年は安政三年十二月、品川宿の素封家細井氏に生まれ、その後伯父の高木以善の養子となった。明治十五年には二十五歳で早くも荏原郡選出の東京府会議員となり、明治二十三年の国会開設にともなう第一回総選挙(二十二年七月施行)には、伯父にあたる大井村の平林九兵衛と争って見事に当選した。その後、明治三十一年の第六回総選挙まで、つねに高木正年と平林九兵衛と一議席をめぐって選挙戦が展開され、第三・四・六回総選挙では高木が、第二・五回総選挙では平林がそれぞれ当選している(一九九ページ)。
この間、高木は明治三十年失明の悲運に見舞われ、今日まで唯一人の盲人代議士として議会で活躍しつづけた。高木の所属政党は改進党から進歩党・憲政党・憲政本党と変わったが、その本質は、自由民権運動以来の都市ブルジョアジーを基盤とする大隈重信の率いる改進党の流れを汲むものであった。
ところで明治三十三年に衆議院議員選挙法が改正されて、選挙権納税資格が直接国税一五円から一〇円に引きさげられるとともに、市部は独立選挙区となり、大選挙区制に改められた。その結果、従来荏原郡は伊豆七島とともに東京第二区、定員一名であったのが、東京府下郡部を一選挙区とし、定員五名という大選挙区となった。この選挙法改正は高木にとって手痛い結果となった。というのは、もともと東京府下の郡部は、三多摩をはじめとして改進党と対立した自由党勢力の強い地域であったからである。しかも自由党は明治三十三年、官僚派の統帥で元老の伊藤博文の組織する政友会に組織がえされ、つねに与党的立場で勢力を拡大し、議会の多数派を形成していた。
選挙法改正後の明治三十五年八月の第七回総選挙で、高木は苦杯を喫した。定員五名のうち政友会四名、高木と同じ憲政本党からは一名の当選者を出しただけで、高木は次点にも及ばなかった。翌年の第八回総選挙にも高木は落選し、翌々年明治三十七年の第九回総選挙にはついに立候補を断念した。
高木正年が選挙法改正によって苦戦している時期に、政界に登場してきたのが、品川町法禅寺の住職であった漆昌巌である。漆昌巌は嘉永三年(一八五〇)一月、岐阜県海津郡大江村に生まれ、十一歳で郷里の円心寺に入って僧侶となった。明治元年十九歳で上京し、芝増上寺で修行し、明治六年北品川宿の法禅寺に入り、翌年この寺を嗣いで住職となった。
身を僧籍に置いたとはいえ、積極進取の性格をもった漆は、明治二十二年には品川馬車株式会社を創立して社長に就任、二十六年には馬車鉄道株式会社社長となり、三十年には機械製氷会社を創設して、取締役になるなど実業活動を行なった。明治三十年還俗(げんぞく)すると、翌年には品川町会議員に当選、三十二年には郡制施行にともなう荏原郡会議員選挙に出馬して当選し、郡会議長となった(以上『漆昌巌翁伝』参照)。
こうした下地の上に、漆は明治三十五年第七回総選挙に、政友会から立候補して当選したのであった。一説には漆は荏原郡の平林九兵衛の地盤を引きついだといわれる(高木善四郎稿「品川政界人脈」)。たしかに平林九兵衛は、この回の総選挙から立候補をとりやめており、その地盤は漆へと引き継がれたであろう。しかし、それ以前の小選挙区荏原・伊豆七島で平林の得票はほぼ二〇〇票台であり、第七回総選挙で漆が得た一、一四一票にははるかに及ばない。漆当選の原因は、この時期、東京市内の地場資本を組織し、東京市・郡に大きな勢力を築きあげた政友会というバックを考えなければ理解できないであろう。このことは逆に、反対派に属する高木正年の苦戦の原因でもあった。
ともあれ、これ以後漆は政友会所属代議士として、当選六回、大正九年まで一五年間にわたって中央政界に活躍することになったのである。日露戦争後は高木正午が再び議員に当選することで、品川町はライバル同士の二人の代議士を有することになった。