日露戦争後から大正期の選挙と地方政治

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明治三十八年、高木正年は講和問題同志会に参加し、三月の第一回講和問題大演説会の弁士として対露強硬論を主張した。八月の第二回大演説会にも弁士としてたった。同志会の主張は、日露講和会議における政府の弱腰を非難するとともに、憲政の確立による政治基盤の拡充を訴えるものであった。講和問題同志会は九月五日の講和条約調印の日、日比谷公園に講和条約反対の国民大会を開き、集まった群衆を煽動し、こがれ日比谷焼打事件に発展したのであった。さきにも述べたように、この事件が日露戦争後の民衆運動の出発点となったのであった。

 講和問題同志会はその後国民倶楽部に発展し、これに所属する代議士は、猶興会という政派を組織した。この政派に属する者は河野広中・島田三郎・大竹貫一・花井卓蔵・小川平吉など三六名であった。

 高木はこれらの政治グループとともに政治活動を展開したが、明治四十一年には酒・砂糖・石油消費税の増税案が議会に提出されると大きな反対運動を組織し、三月には河野広中・島田三郎らと豊多摩・北多摩郡下で非増税演説会を開き、郡部での世論喚起に努めた。こうして高木の活動は日露戦争後の都市民衆に訴えることで、政友会などに組織されない新たな基盤をつり出すことに努力を傾けた。

 明治四十一年五月の第一〇回総選挙は、高木のためにも、高木の属する政治グループにとっても重要の意味をもっていた。明治四十年三月国民倶楽部・猶興会など一〇団体は、政界革新同志会を結成し、腐敗せる政界の革新と立憲政の確立を訴え、選挙準備を開始した。明治三十五年以来議席を有しなかった高木にとっても、今回の選挙は再起のチャンスであった。さきの豊多摩・北多摩郡下における非増税演説会なども、選挙準備の意味もあった。こうした高木の活動に対し、南足立・南葛飾両郡の日本織物連合会は、高木を東京府下郡部代議士候補者に推薦した(『万朝報』明治四一・三・一二号)。このことは高木の基盤が一つには郡部の中・小商工ブルジョアジーにあったことを示している。

 しかし高木の選挙運動は困難をきわめた。『万朝報』五月十四日号は「府下の逐鹿形勢」と題してつぎのように伝えている。

 東京府郡部に於ける政友会の独占計画漸く其功を奏し、高木正年氏に対する圧迫急にして、あらゆる感迫に加ふるに暴行を以てし、高木派の運動自由ならざるより氏は益す悲運に傾けり。郡部有権者数一八、六二四にして定員五名に対する平均点は三、〇七五なるも二、三割の棄権者あるべければ、結局二、五〇〇票以上を以て当選点とすべし。政友会側の策戦(ママ)は西多摩を森久保作蔵氏、南多摩を村野常右衛門氏に、北多摩を中村克昌氏、又南葛飾を岡崎(邦輔)に配分し、其不足を北豊島・多摩諸郡に仰ぐ手筈なるが、漆昌巌氏は荏原郡を根拠とし豊多摩・南足立方面に侵入し得票既に三、〇〇〇を越え郡部に於ける最高点の名誉を荷ふに至るべし。(中略)高木正年氏は一、〇〇〇票に近き荏原を根拠として各郡に及び二、〇〇〇票内外の得票に過ぎざるべしと観測せらる。

 西多摩郡では高木派は森久保作蔵の地盤にきりこみ、三多摩壮士の暴行を受ける事件なども起こった。しかし選挙の結果(第107表参照)は『万朝報』の予想を見事に裏切り、高木は最高点で当選、議会にかえり咲いた。

 この選挙で猶興会は、高木正年のほかに、東京市内で高木益太郎・蔵原惟廓・三輪信次郎を当選させ、全国的にもかなりの初当選者を出した。これは既成政党の政友会、官僚派に接近しようとする憲政本党改革派などにあきたらない都市の中・小ブルジョアジーや普通選挙など政治的権利獲得をめざす自由主義的な中間層の支持によるものであった。猶興会に結集する政治グループは、それ以後党派的にはいく度も変遷を重ねるが、普通選挙権や減・廃税などの要求をかかげ、都市の民衆運動を代弁する政治勢力として活躍するのである。

 第107表 明治41年・第10回総選挙東京郡部結果
候補者 高木正年 漆昌巌 岡崎邦輔 森久保作蔵 村野常右衛門 中村克昌
荏原郡 1,084 1,097 11 4 15 3
豊多摩郡 388 550 54 420 20
北豊島郡 303 1,067 187 722 42
南足立郡 556 433 204 7
南葛飾郡 230 1,714 267
西多摩郡 44 229 872 1
南多摩郡 81 1 7 2,440 6
北多摩郡 435 15 73 4 3 2,325
3,121 2,729 2,702 2,500 2,465 2,398

 資料:『万朝報』明治41.5.18号
   所属政党は高木の猶興会以外はすべて政友会。