荏原郡下における政党化の波

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第十回総選挙の結果、品川町は一挙に二名の代議士を生みだした。その得票からも明らかなように、荏原郡の票は高木正年と漆昌巌に完全に二分され、両者の票数はほとんど同数であった。その後高木は昭和九年十二月の死にいたるまで衆議院選挙に出馬して当選を続けた。一方、漆昌巌も大正九年の第十四回選挙でその地盤を土屋興に譲るまで、当選を重ねた(但し大正四年の第一二回総選挙では落選)。いま大正期の各総選挙を示すと第108表の通りである。

 第108表 大正期の東京郡部総選挙結果
第十回 高木正年 猶興会 3,123 選挙人18,626,棄権2,494
漆昌巌 政友会 2,729 無効135
岡崎邦輔 2,702 明治41年5月15日
森久保作蔵 2,500
村野常右衛門 2,465
中村克昌 2,398
その他 80
第十一回 高木正年 国民党 4,732 選挙人19,429,棄権3,607
森久保作蔵 政友会 3,330 無効195
望月右内 2,635 明治45年5月15日
漆昌巌 2,425
村野常右衛門 2,339
その他 161
第十二回 高木正年 大隈伯後援会 5,719 選挙人2,466,棄権2,398
守屋此助 立憲同志会 3,357 無効110
秋本喜七 政友会 2,769 大正4年4月25日
森久保作蔵 2,603
村野常右衛門 2,022
漆昌巌 2,016
その他 99
第十三回 高木正年 憲政会 4,215 選挙人20,568,棄権2,139
秋本喜七 政友会 2,793 無効77
前田米蔵 2,665 大正6年4月20日
村野常右衛門 2,509
漆昌巌 2,495
秋本豊之進 憲政会 2,402
その他 642
第十四回 高木正年 憲政会 5,662 選挙法改正により小選挙区制となる。
土屋興 政友会 3,639 東京第13区(豊多摩,荏原,伊豆七島)
長谷場敦 2,747 選挙人18,647,棄権3,759
石川安次郎 憲政会 2,728 無効82
その他 12 大正9年5月10日
第十五回 石川安次郎 憲政会 9,051 選挙人35,012,棄権6,806
高木正年 革新クラブ 6,940 無効180
土屋興 政友本党 6,072 大正13年5月10日
牧野賤男 政友会 4,327
小松原弥六 実業同志会 913
長谷場敦 政友会 391
その他 91

 

 これらの各選挙において、高木・漆両派の荏原郡下における得票数はほとんど一定しており、ほとんど同数であった。たとえば漆昌巌の最後の選挙戦となった大正六年四月の第十三回総選挙でも、高木の一、二二二票にたいして漆の得票は一、一九三票、その差は僅か二九票にすぎなかった。両派のしのぎを削る選挙戦と、そのための郡内政治勢力の組織化は、品川町はいうまでもなく、荏原郡下各町村を二つに色分けし、町村行政にも大きな影響を及ぼした。

 第十回総選挙直後の明治四十一年六月十五日発行の地域新聞『城南』は、「漆・高木二君に望む」と題する論説をかかげて、つぎのように述べている。

 (前略) 足下等(漆・高木)は、身を同郡同町に起し各々月桂冠を頂いて還る。殆どこれ異例の光栄なりと云いつべく、一人の代議士すら有せざる豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の地方に比して殊に人の驚嘆をひくに足れり、今よりして後、「品川」の二字は、名物しゃこの天麸羅の外に、人傑の産地なりとの新意義を有するに至るべし。(中略)由来荏原郡は感情に支配せらる、公争は直ちに私怨となり、事毎に相衝突するの傾向あり、今や足下等の選挙のためにますます其の勢を長じ来れり、然も足下等倶に目的を達せしより、荏原郡は両頭の蛇となり各鎌首をもたげて口炎を吐かんとす、南北品川は云はずもがな、或は大森に或は羽田に、又或は目黒に、名を漁業若しくは教育に托し、両派の反目日に是れ甚だしく為めに自治の基礎を動揺するの恐れあるに至れり、足下等は之れを観て、果して如何の感がある。

 凡そ政党の事は、中央政治を目安として相団結したるものなれば、寸毫だも政党の名を以て其の地方自治の範囲に嘴を容るるの権利あることなし、(中略)今や我等は立憲時代の民として、世界の進運に伴ひ、国を挙げて一大活動を為さんとするに際し、何者の愚ぞ、中央政治と地方自治の区別すら没却し政党の旗印を学校の位置の問題にも担ぎ出し、海面の作業の案件にも振りまわし、町村会にも政友・非政友、組合会にも進歩・非進歩を叫び心あるものをして噴飯せしむるの事態は、足下等の日常視聴するところ、(中略) 出て共に議会に天下の大勢を争ひ、入て倶に郷土に一郡の発達を図る、大丈夫の大丈夫たる所以、蓋し茲にあらずや、足下等は心より之を為さんと欲すれば直ちに之を為すを得、今や荏原郡の各所、選挙の余燼未だ全く消尽せず此の機に乗じ蝸牛角上の争は再び三たび繰り回され、自治の平和、漸く保証を失はんとするの形勢にあり、足下等吾徒の苦言を諒とし、一夕相会して其の旧交を温め、双々釈然たる態を以て郡民の前に起ち、総ての問題に対し第三者たるの地位を確持し、除ろに善後の策を与へよ。(中略)聞く荏原郡に高等視察を要する警察事項ありとせば、多くは漆派・高木派の確執にありと、嗚呼この言にして真ならば、無前の大辱と云ふべきにあらずや、切に足下等の三思を望む、切に足下等の三思を望む。以上。

だいぶ長い引用になったが、選挙直後の両派対立の様相を伝えている。

 漆=政友、高木=非政友の対立は、荏原選出の府会議員・郡会議員・各町村会議員にまで及んだのであった。しかし漆昌巌は大正九年の第十四回選挙に際して十余年にわたる議員活動に終止符をうって、大崎在住の土屋興にその地盤を引きついだ。土屋はその後昭和三年の第一回普選実施前まで議員として活動したが、早逝した。これによって荏原郡の政友会の血派はいちおう絶えた。一方、高木正年は昭和九年まで議員として活動し、在職のまま死去した。そのあとは荏原区の伊藤武七郎が継いで、昭和十一年の選挙で当選した。しかし伊藤は間もなく急死し、次の選挙では高木直系の品川の大橋清太郎が選出され、大橋は戦後の公職追放まで議員を勤めたのであった。

 こうして、戦前期の荏原郡の政界は高木・漆両派を軸に展開されたのであったが、昭和三年の第一回普選以来、無産政党の登場によって新たな要素が加わって来るのも見逃がせない。これについては後の章で述べよう(この項全体については、高木善四郎稿「品川政界人脈」「貧乏代議士高木正年」「漆昌巌のこと」)。