大正期に入ると品川・大井・大崎・荏原の各地域でも、近代工業の発展、それと並んで職工やサラリーマン層の増大につれて、労働組合が次々と生まれ、労働争議があいついで起こるなど、現代における基本的な社会問題が発生するようになった。
明治四十五年八月一日、明治天皇が崩御されて三日目、大正と年号が改められた第一日の夜、三田四国町二番六号惟一館に鈴木文治以下一五人が集まり、友愛会が生まれた。一五人のなかには日本電気株式会社大崎工場の電気職工高橋秀雄も加わっていた。かれは、会社の上役から差別待遇をうけたうらみを個人的な復讐で果たそうとして鈴木文治から諌められ、もっと組織的に自分たち職工のおかれている惨めな状態を改める必要があると決意を固めて、友愛会創立に身を挺したのであった。時代の要請にも合致していたし、鈴木文治や高橋秀雄らの非常な努力で友愛会は急速な成長発展をとげ、それとともに城南支部はじめ多くの地域組織が生まれた。
大正二年(一九一三)十二月ころ友愛会大井分会が生まれた。城南支部に所属する会員で大井町の工場で働いてい者や、住んでいる者が集まって独立したものであった。主に東京電気株式会社大井分工場の労働者らであった。大井分会創立に際して中心になった佐藤定而もその工場の鉄工であった。かれは技手としての資格があるにもかかわらず、会社からの昇格のすすめを断わって、職工として労働者階級のために献身したという人物だった(『労働』第七十九号)。
大井分会が十二月の何日に発足したのか、今のところはっきりしないが、機関誌『友愛新報』(一九一四年一月号)に、十二月三十一日、大井町大井倶楽部で大井分会茶話会が開かれて、四〇余名が参加、鈴木文治会長の講演があり、大井支部設立を申し合わせたとあるのが、最初の記事なので、おそらく、その日が分会としての正式の旗上げであり、発足はその日か、あるいは少しばかり前のこととみられる。
友愛会品川分会はその日より三日遅れの、大正三年一月三日に鈴木文治会長を囲んで新年宴会を開き、その場で発足したと記録されている。
事務所は大井分会が大井町字立会一三一六番地三浦昌司方、品川分会が南品川二日五日市町一八八番地岡田庄八方に、それぞれ置かれた。
さらに城南支部は会社や工場ごとに、あるいは同じ工場でも会員の住所などによって五三もの部に区分されていたが、その第四十八部は高橋秀雄らが大崎町を中心に指導し組織拡大をはかっていた。一月七日第四十八部会を開いたが、鈴木会長はそこにも出席した。この第四十八部会も、この日が実質的には発足の日であったとみてよいだろう。
こうして大井・品川・大崎に、やがて本格的な労働組合へと成長していく友愛会の三つの地域組織がうぶ声をあげたのである。いずれも友愛会鈴木文治会長が直接乗りこんで分会(部会)が発足したことは、鈴木文治の友愛会に対する情熱と精力的な活動ぶりを示すとともに、高橋秀雄や佐藤定而らの熱心な活動家がいたこと、また急速に工場が伸び、労働者の街になりつつある現品川区地域が、組織的にも重要だという判断があったのかもしれない。さらに一つには鈴木文治が関東大震災時には上大崎に住んでいたが、東京市外といっても、友愛会本部のある芝区とは隣接の地で交通上も便利であったために、かなりひんぱんに鈴木会長の出席を得ることができたのであろう。
ところで、当時の分会の状況は、事務所といっても個人の家に置き、会員も十数人、多くて数十人の小規模のものでしかなかった。それでも労働組合の卵らしく、かなり組織だった形態をとり、活発に運営されていた。たとえば大井分会は委員長兼会計係佐藤定而・図書部係兼拡張係江守順太郎・体育部兼庶務係島貫蔵・庶務係三浦昌司・拡張係がそのほかに六名といった役員と任務分担を定めていた。ここでは会員全部に任務分担を割ふったのではあるまいか。
大正三年、七月十二日、大井町三ツ俣大井倶楽部で大井分会例会が開催されたが、その日は雨にもかかわらず、会員・一般来聴者合わせて三〇〇人余も集まる盛会だった。城南支部の応援もあったが、それにしても分会員の努力はたいへんなものだった。
例会は、まず鈴木文治会長の「労働者の叫び」と題する講演が行なわれ、参会者に深い感銘を与えた。賛助会員である東京電気大井工場長前原仙次郎が「努力」という講演をした。つぎに会員の「五分間演説」として加藤保「言行一致論」、安達委員・岡芹静一「会員の自覚」という発言があった。最後に図師鳥水の薩摩琵琶「雪晴」と会員加藤保・杉山たき子のバイオリン合奏「六段の調べ」という余興で幕を閉じた。閉会後茶菓を喫して散会した(一九一四年八月一日『友愛新報』)。友愛会初期の会合は、ほぼ、こういった内容で、いかにも友愛会らしいものであった。