大井分会から荏原支部へ

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大正三年十一月一日、大井分会は荏原支部になった。当時の友愛会の規定で、正会員一〇〇名以上ならば支部をつくれるということになっていた。荏原に改称した理由がはっきりしないが、その後、荏原労働組合として活躍した組織が、ここに荏原支部に発展したわけである。翌大正四年一月三日荏原支部の発会式が品川町城南尋常高等小学校で開催された。会員加藤のオルガン奏楽で、一同起立して「君が代」を唱った後、佐藤定而の「発会式の辞」、鈴木文治の「友愛会とは何ぞや」、支部顧門の松尾弁護士「良知と良能の活動」、医学博士南条哲次郎「労働問題研究の必要」という講演が行なわれた。終わりに、余興として三浦楽堂の教談「半井出世譚」、バイオリン弾奏があった。荏原支部幹事長佐藤定而の「発会式の辞」は「謹んで軍国の新年を迎へ、併せて国家将来の大発展を祈ります」という言葉ではじまるものであった。

 城南支部第四十八部会も大崎支部へと一足とびに発展した。荏原支部よりも先に大正三年十一月二十二日大崎町立日野小学校で大崎支部の発会式が行なわれた。参加者も荏原支部のそれを上まわる五〇〇余人に達し、当時の友愛会としてもかなりの盛会であった。鈴木文治の「労働問題の大勢」、添田寿一「資本と労働との調和」の講演、地元の日蓮宗大学はじめ友愛会江東支部・川崎支部・城南支部の代表から祝辞があり、余興の薩摩琵琶「川中島」がそえられた。

 品川分会も少し遅れたが、大正四年(一九一五)一月二十八日、支部へと発展を遂げた。このように、荏原・大崎・大井の各組織が、ほとんど同じ歩調で支部へ発展していったのも注目に値いする。

 当時の東京府における友愛会の支部・分会の状況をみると第109表に示すように大正五年九月十日現在で支部二六、分会四、全国(海外も含めて)の支部・分会七五の四割をも占めていた。会員数では東京府は三割強であった。これは東京府の友愛会がやや一支部当たりの会員が地方組織よりも少なかったことを表わしている。さて、品川・大井・荏原の各支部を府下の各組織と比較してみると、会員数では、荏原支部が第七位、大崎支部第十位、品川支部第二十位であった。当時の友愛会における婦人の地位がいかなるものであったかは、今後の課題であるとしても、少なくとも初期は正会員は男子成年だけであって、この点はイギリスの伝統的な職能組合とやや似通っているといえようか。婦人数では荏原支部はかなり多く、会員の三分の一強を占めていた。浅草支部・本所支部についで婦人会員が三番目に多い支部だった。大井鉄道被服工場の縫工を擁していたからである。また、現在の二十三区を念頭においてみると、品川区地域は港区とともに、友愛会組織の先進的地域であったといえる。

 第109表 友愛会支部別分会別会員数  大正5年(1916)9月10日現在
支部分会名(数) 会員数 正会員 婦人 賛助 所在地
荏原 422 274 135 13 南品川町1538
大崎 255 154 4 大崎町下大崎34
品川 113 98 11 4 北品川町東海寺293春雨庵
中央 234 230 4 大崎町桐ケ谷353
城南 464* 437 29 芝区仲門前町2-10
芝浦 376 365 11 芝区西応寺町42
本芝 465 458 7 芝区三田四国2-4 仁藤方
大森 119 93 13 13 大森町不入斗1222
目黒分会 15 15 上目黒1944 早稲田方
麻布 151 150 1 渋谷町87 坂内方
西方 67 62 1 4 淀橋町角筈663
城西 395* 330 93 8 淀橋町角筈306
京北 134 121 10 3 小石川区指ケ谷町144 中村方
久堅分会 88 77 10 1 小石川区久堅町95 長谷川方
砲工 小石川区諏訪町30 荒井方
王子 217* 247 王子町下十条1-518
本所 1,073* 824 243 7 本所区押上町106
太平 168 162 6 本所区太平町1-28
深川 646* 636 15 深川区猿江裏町5
江東 163 132 25 6 深川区東大工町67
浅草 530 205 325 浅草区北富坂町12 大越方
京橋 177 172 3 2 月島西仲通4-8
大島 50 50 大島町2-682高橋方
小名木川分会 71 68 3 大島町小名木川5-17 山本方
吾嬬 713 618 93 2 吾嬬町請地121
千住分会 113 65 48 千住町中組23 笹生方
鐘ケ淵分会 52 35 17 隅田村389 坂田方
城北 167 160 7 板橋町724
秋川 47 45 2 五日市町 並木方
八王子 58 52 2 八王子町新町10
東京府 (30) 7,543 6,335 1,081 100
地方 (45) 12,012 11,153 575 310
海外
全国合計 (75) 19,554 17,488 1,656 410

(備考) 1)友愛会機関誌「労働」1916年(大正5)11月号より。
     2)※印は会員のうちわけが合計より多いもので原表のままとした。

 なお第一表に中央支部が大崎町所在となっているが、これは中央停車場勤務者の組織である中央支部が、大正五年九月から数ヵ月間だけ、事務所が大崎町にあった。最初、大崎支部に所属していたが(第六部)同年一月、交通上の便宜から分離独立し、京橋、大崎さらに芝に移転するという歩みをたどった。鉄道院大井工場の労働者を中心に大正六年三月二十一日中央第二支部が結成され、やがて大正八年荏原支部に合併した。そのほか園池分会や同じく東京鉄工組合日鉄支部などがあいついで組織された。

 こういった友愛会の初期段階における好調なすべり出しは、当時の労働者階級の要求と合致していたからにほかならない。というのは、明治末期の大逆事件以来、それまで胎動し芽生えようとしていた労働組合・無産政党は圧殺され、踏みにじられて、冬の時代にあった。あの事件は日韓併合などの対外進出と呼応して国内治安を一層強固なものにしておくための政策のあらわれでもあった。だから、鈴木文治が述べているように、会社を社会と間違った看板に対してさえ、警察が厳しく干渉するという有様であった。このような冬の時代の厚い氷を割って、労働組合が再び芽を育て、伸ばすには、正面切った労働組合の結成はおよそ不可能であった。生れたばかりの友愛会は、たしかに労資協調の路線であり、修養団体の側面を強くもっていたが、基本的には、あくまでも労働組合であり、階級的大衆組織だった。日本の階級闘争という広い、長期にわたる観点からみて、友愛会は極めて重要な歴史的役割をもって登場したといえる。当時の労働者の状態がいかに切実に、改善を求めていたかを、鈴木文治が述べている「官立の大井某工場」の例でみてみよう。

 この工場の職工は、いかに忠実で勤勉で技術優秀でも、それだけでは役付になれない。当時その工場の役付職工は一種の「株」になっていた。伍長は二〇円、職長は三〇円という相場で、この金が払えなければ役付になれないし、払えれば多少年限が短くとも比較的早く出世できるというしくみになっていた。一事が万事で、定期昇給も割りのよい仕事の振り当てなども、役付工に対する日常の「つけとどけ」の有無と、その多少によって左右された。一たん職長の地位になると、盆暮の進物は山のようになり、とても消費し切れないので、出入りの商人にビールや砂糖などを引取ってもらうほどのありさまだった。はなはだしい場合には、上役のごきげんを取り結ぶために、女房や娘を人身御供に捧げる者さえ実際にあったといわれた。事実、上役のなかでも横暴な者になると役目を笠にきて暴威をふるうのも役得と思っているありさまだった。鈴木文治の敍述は今日からみると、かなり極端のように思われるかも知れないが、九州の炭坑の納屋制度や、北海道の監獄部屋・たこ部屋、飯場などは、もっと非人道的な状態だったことを想起すれば、太平洋戦争前の日本の労働者は、多かれ少なかれこのような状態におかれていたことは否定できない。

 だから、鈴木文治が、こういったひどい実状に対抗し、横暴を打ち砕くには、一人や二人の力では及ばないのであって、団結の力によるほかに道はないこと、その条件を外国の労働組合のたとえをひきながら話すと、聞いている労働者の間から、「感激の呻きが忽ち揚るという有様であった」(鈴木文治著『労働運動二十年』四二~三ページ)。友愛会創立の神々の座に並んだ大崎町の職工高橋秀雄らもその一人であったに違いない。