大正八年(一九一九)から大正十年にかけて大崎町の株式会社園池製作所で世間の注目を集める争議が起こった。園池製作所は従業員四五〇人くらい(市村光雄氏談、『労働運動史研究』一九六二年九月)、当時としてはかなり大規模の機械工場で、友愛会の職業別組合である東京鉄工組合大崎支部の拠点だった(東京鉄工組合は一九一八年十月十日全国にさきがけて結成をされた職業別組合、すでに一面では産業別組合の性格ももっていた。一九一九年五月十七日には、第一部を日本鉄工所、第二部を園池製作所、第三部を園池新工場と闘争体制をととのえた。)。
大正八年七月二十七日、専務取締役隈崎佐太郎の賃上げどころか馘切がでないのを有難く思えといわんばかりの話に反撥した労働者たちは、一日三〇銭の賃上げ、日曜日休業、就業時間一〇時間など一二項目にわたる要求をつきつけた。三日後、会社側は要求を全面的に承認した。この労働者側の勝利は高く評価され、「戦はずして勝てる東京鉄工組合」と題して友愛会機関誌『産業及労働』(一九一九年九月号)に紹介された。そのなかで「斯くの如き解決を告げたるは無論会社が新時代を解したるに依れど会社をして新時代を解せしめしは鉄工組合の団結の力である」と評された。全く争議戦術を実施しなかったのかというと、「半日くらいサボタージュ状態だった」(市村光雄氏談)らしい。ただし組合として闘争指令をだしたということではなかった。
日本鉄工も含めて、当初の大崎支部会員は六〇名前後に過ぎなかった(大正八年五月二十五日現在)が、この要求獲得あたりから会員は急増し、新入会員六月三六名、七月六九名というぐあいにふえ、やがて園池製作所に関しては「オール組織になった」、つまり全職工が加盟するに至った。それには要求獲得によって張切った会員が拡張の好機とばかり、組織活動を熱心に行なったからであった。また渋谷・大崎・麻布・三田方面まで出かけて、「労働問題早わかり」、「工場法釈議」などのパンフレットを売り、資金獲得をすると同時に組織拡張の宣伝活動を行なった(『労働』大正八年七月号参照)。
「戦はずして勝利」をおさめ、労働組合の威力を現実に示すことによって、何物にも代えることのできない実践で模範を示したと同時に、今日でいう学習会も研究会、大小の講演会などさまざまな形で実施された。
五月七日(月) 第一回研究会出席者二〇余名、本部から三木理事長・中田・小林理事らが参加、大崎町日蓮宗大学下通りの支部事務所
五月二十五日(日) 出席者六〇余名、本部より三木理事長・山口・中田・小林理事・友愛会荏原支部長青柳参加、三木理事長「日本の労働者の技術水準」、山口理事「社会主義よりみた現代経済」、中田理事「フォード自動車の職工優遇法」などの話
六月二十二日(日) 大演説講演会を大崎町日蓮宗大学下通り新大崎館で開催、宮下浜平支部長開会の辞、中田惣寿、稲葉、門脇、三好、猪瀬らの五分間演説、深谷祐太郎の会務報告のあと、勝永常次郎「組合の価値」、小松豊市「自重戒心の秋」、岡崎一郎「団結の目的」、福岡金次郎「我等の使命」、小林幸四郎「現代の要求」、三木治郎「労働組合の国家」、平沢計七「一人 千三百人」、松岡駒吉「新文明の建設」、棚橋小虎「運動の帰趨」などもりたくさんの講演で、参加者五〇〇余名
このころ園池製作所に職工として勤め、東京鉄工組合員でもあった市村光雄氏の思い出によれば「それまで私は講談本ばかり読んでいましたが、これは勉強しなければいけないと思い」一念発起して学習をはじめた。
「……たまたま『東京毎日新聞』でしたか、布施勝治という記者が書いたロシア革命の記事が大きく報道されたのです。私はそれをたんねんに読んで、労働者もこうならなければいけないと感じまして、それから急に組合運動をつよくやるようになったのです」(市村光雄氏談「座談会〝友愛会〟時代を語る 旧友会ききとり(1)」『労働運動史研究』一九六二年九月三三号)。
また、この『東京毎日新聞』(四ページの夕刊専門の新聞)には加藤勘十が記者として働いていた。かれは園池争議には取材というよりむしろ応援にかけつけた。
「私が社会面に記事として取材したものはストライキ、労働組合についてのものが大部分で、記者クラブ詰の記者として義務づけられたものが少しばかりであった。たまたま園池製作所ストのあとで『労働者の力』と題して論説を書いたところが、それに対して第一の反応は販売禁止の処分であった。新聞社にとって販売禁止は経済的に大きな痛手である」という事件も派生した(加藤勘十著『自叙伝』二三一ページ)。
この闘争の後の東京鉄工組合大崎支部の活動は目覚ましいものだった。十月、労働組合の意向を無視し政府が勝手に選んだILO労働代表桝本に反対する全組織労働者をあげての反対運動には、極めて積極的に組合員一人一人が参加した。十月八日大崎支部として桝本労働代表反対大演説会を開催し、そこで黒の弔旗を持って送ることを満場一致で決定した。十月十日の当日には早朝午前六時に東京駅に約二五〇~六〇人の組合員が結集し、そろって横浜に向かった。この間の二ヵ月間は、二~三日に一回の割で幹部会がひらかれた。
この段階で大崎支部の組合活動の上で一だんと条件がよくなっていた。それは先の「戦はずして勝利」をおさめた際に獲得した第十二番目の最後の項目、つまり園池倶楽部を組合のものとして利用できたことである。この倶楽部は園池製作所の所有で、大崎町百反坂上にあった。近くて便利だったし、何よりも経済的に助かった。
「約五十坪の気の利いた建物で……。球撞台あり講堂あり、娯楽器具も亦備ってゐた。裏の硝子障子を開けば赤ちゃけた畑を隔てて半町先に葉の落ち尽した冬枯の林があって、小雀が常に来り鳴いて、時に狽ただしく飛び去る事もあった。朝は霜の香を漂はし夕べには星の光を輝かして自然は懐しく此倶楽部を見守ってゐた」(「鉄石の結束に労働者の勝利、園池製作所工場閉鎖事情」『産業及労働』大正九年三月号)