大正九年正月早々園池製作所の労働者は八時間労働制、賃金一割増、解雇手当、退職手当ならびに長階級の任免の五項目を要求して、十八日間にわたるストライキとなった。労働者が最も重視したのは最終の組長・伍長など長階級を職能別に選挙で三名の候補者をえらび、会社は、そのなかから一名を任命するという点だった。かれらはこれを「産業民主の要求」とよんだ。会社は工場閉鎖をほのめかし、全員解雇を通告してきたが、職工側は東京鉄工組合理事長三木治郎・理事松岡駒吉らの指導下に、百反坂上の園地クラブに籠城した。争議団は第一・第二・第三の交渉委員、書記・警備員・会計・伝令・庶務・出席係兼応接係・場内整理・炊事・食糧係・衛生係・調査委員・娯楽係などの部署をきめ、出席係は毎朝出席名簿をみて欠席者にたいしては調査員が戸別訪問するなど、整然たる秩序をもって闘った。たまたま流行性感冒がはやったので争議団はマスクを製造して販売した。争議中の「アルバイト」で闘争資金をつくった最初のことといわれ、五、三四三個のマスクを製造、四二六円二〇銭の純益をあげ、大いに士気をたかめた。さらに一月二十三日夜、大崎町五反田クラブで不当解雇発表演説会、二十四日夜友愛会本部で各労働団体主催の応援大演説会、二十五日夜大崎町新大崎館で労働者大会を開催した。参加者は「三晩とも立錐の余地無き程の満員であったが、殊に最後の晩は舞台も楽屋も寒い風の吹く窓下も残らず聴衆に占領され、臨検の警官は総て片隅に圧迫されて、身動きもならぬやうな奇観を呈した」ほどだった(友愛会機関誌『産業及労働』大正九年三月号)。松岡駒吉議長のもとに(1)階級的同情に訴へ義金を募集する、(2)与論に訴へる、(3)会社の職工募集に応じないよう対策をたてる、(4)敗北した時には労働者を売った人物のブラック=リストをつくり、全労働団体に通告して社会的制裁を加える、(5)株式会社園池製作所製品の不使用同盟を組織するなどの闘争戦術が「満場割れるばかりの拍手喝采で迎へられた」(前に同じ)。また、これらの演説会の前にデモンストレーションを敢行、「宵闇を衝いて利鎌の如き月下を、大崎町内を練り歩いた。約三百人の人が紫の旗と提灯を先頭に、高らかに労働歌を歌いつつ通るを知って、労働者は工場工場の塀内より万歳を絶叫して歓迎した。労働者ならざるも亦走って一行を迎へ万歳を連呼した」(前に同じ)。明電舎一一五円、日本電気五〇円、日本精工三一円五〇銭などの地元はじめ多くの労働者からのカンパがよせられ、総額で三七六円五五銭に達した。このような労働者側の波に乗った攻勢に対して資本家側は遂に折れ、解雇取消、労働者側の要求を一応撤回した上で、(1)八時間労働制承認、(2)賃金一割増、(3)工場委員会を会社側・労働者各五名の委員でつくる、(4)「長」は会社側が五名の候補者を選び、そのなかから投票できめる。(5)組のなかで半数以上の労働者が「長」を不信認したときには、その長に警告を発し、二ヵ月後さらに信認投票で三分の二以上の不信認があるとき、会社は一ヵ月以内にその「長」を免ず、(6)以上を二月一日から実施する旨回答した。職制の任免についてこういった民主的手続きを約束させたのは、極めて異例のことであった。その結果園池製作所は一層有名になった。友愛会鉄工組合の全面的勝利だった。ただし「交換条件として三木治郎ら中心幹部九人が解雇された。ハッキリした証拠はもたないが、裏交渉があったらしい」(市村光雄氏談)。戦前わが国の労働争議解決に際して、指導者は、ともかく会社や世間に〝迷惑をかけました〟ということで退職する一種の慣習じみたものがあったといわれるが、園池争議の場合も、おそらく、その例であったものとみられる。