工場管理戦術の決議

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しかし、翌大正十年三月四日再び園池製作所で争議がおこった。労働者にとってかなり有利な工場委員会制度を獲得したはずだったが、実際には会社側が一方的に(1)請負制度全廃、全部常用とし、最高十二割高低三割の歩増を支給する、(2)遅刻一分でも絶対に就業させない、(3)月手当を改め日割として、早退・欠勤には支給しないなど大正十年一月二十三日通告した。当然、組合側は色めきたち工場委員会の存続の確認、従前通り月手当の支給を要求したが、三月四日園田武彦社長は、以前従業員の前で「現行制度の一切は断じて之れを変更せず」と約束したにもかかわらず、「諸君に約束した事は確かであるが、遺憾乍ら実行する事を得ず尚重役会議の結果要求は総て拒絶するの外なし」と回答した。

 この折、品川警察署が「労働者側に少しく内紛のあったを口実にして」実行委員の斎藤ら五名を拘引検挙する事件が起こった。会社側は品川署刑事の立会いで五二名に解雇辞令を交付しようとしたのに対して、労働者はストライキに入ると、桝田弥三郎・田口亀造・中田惣寿ら指導者を検挙、さらに「演説会を開かんとすれば会場は得られ」ぬという圧迫が加わった。会社側の強硬な態度、警察の干渉・圧迫は、いきおい労働者の怒りの火に油を注ぐことになった。しかも園田社長は行方をくらまして交渉に応じようともしなかった、これをきっかけに「工場を占領して、職工の力で工場を管理する事を決議」するに至った。工場を占拠して工場管理を行なうという戦術は、当時サンジカリズム派の人々の主張だった。

 このころになると園池製作所の労働者にもサンジカリズムの影響が一部にせよ浸透していたことを如実に物語るものであった。もし、工場管理戦術を具体的に実行できたならば、おそらく、秩序整然たるストライキ闘争の蓄積をもっていた組織であったから、かなりのところまでやれたかもしれない。ところが、警戒中の警官に阻まれて五名検束され、万歳を三唱し、ガードに組合旗を立てただけで終わった。三回目の闘争は「実質的には何もとれないで壊滅」したといわれる(棚橋小虎「友愛会の思い出」『労働運動史研究』第三十一号)。ただし、戦前の強力な弾圧下に、少なくとも工場管理を決議し、実行しようとした組合と労働者がいたという事実だけは、これを忘れてはならない。第二次大戦後の読売争議ではじめて生産管理闘争戦術を日本の労働者が知ったというのは事実に反する。