さらに大正十二年一月二十一日、東京鉄工組合・東京電機及機械工組合・横浜造船工組合の三組合が合同し、関東鉄工組合が誕生した。左派の東京電機及機械工組合や横浜造船工組合が総同盟に加盟して以来、同じ金属産業に三組合がてい立している状態を解消しなければならないという三年越しの懸案だった。関東だけではなくてやがて、全国の金属戦線統一への第一歩として歓迎された。芝金杉橋一丁目七福亭で開かれた合同大会では、司会者を以前園池製作所職工だった市村光雄がつとめた。理事長に内田藤七、常任委員に土井直作が選ばれた。大崎町居木橋二四六神崎方の東京鉄工組合曙支部からも一名が理事として選ばれた。
ところが翌十三年四月二十日麻布万盛館での関東鉄工組合第二回大会では、土井直作と河田賢治が主事の座をめぐって争ひ、番狂わせで左派の河田が当選して右派を激怒させ、やがて総同盟の左右分裂をもたらした直接の導火線となった。
当時、総同盟本部の主事を辞任した松岡駒吉の大崎戸越の家には望月源治・内田藤七・三木治郎・小原源一・土井直作・福岡金次郎・原虎一・徳永正報など右派が集り、これを大崎戸越組とよんでいた。
これに対して野坂鉄らの産業労働調査所が内幸町に設けられると、田口亀造・山本県蔵・横石信一・河田賢治・松尾直義・市村光雄・杉河賢一・金子健太・菊田善五郎・唐沢増八・春日辰次郎・立松市太郎らの左派が出入りし、内幸町組といわれていた。また、加藤勘十によれば、この松岡駒吉と田口亀蔵とはもともと仲が極端に悪かった。田口は大崎の労働会館に、松岡は荏原の自宅に、それぞれ人を集めていたので大崎組・荏原組といわれたこともあったようである。いずれにせよ、左派・右派の対立は、すでに抜きがたいものとして労働組合の底流として存在した。
大崎町・品川町・大井町から川崎市へかけて、機械・金属工業が急速に発展しつつあった。右派はようやく、この地域に一大拠点を構築して左派と対決しようという構想をたてて実行した。中心人物は徳永正報だった。
大正十二年関東大震災の衝撃からようやく立ち直って初めての関東鉄工組合幹部会が十一月九日開かれ、その席上で徳永正報は大崎支部の成立状況を報告し、満場一致で関東鉄工大崎支部の承認を得た。その前後、あいついで支部が設立されはじめた。大崎第一支部=東京衡器製作所、大崎第二支部=日本鉄工所で、田口亀造・河田賢治・横石信一など左派の活動家を輩出したが、組合幹部の解雇と会社の圧力で組合はなくなっていたが、ようやくここに復活した(一九二四年四月一日号『労働』)。つづいて大崎第三支部=沖電気分工場が、大正十三年三月十六日結成された。さらに大崎第四支部が各工場に散在する組合で構成された。これらの第一~第四支部は、関東鉄工組合で大正十三年三月一日承認された。
右派は、これを拠点にさらに急速に組織拡大をはかった。その手はじめが岡部電機製作所だった(従業員約一〇〇人)。伊藤小太郎ほか二人のオルグが工場にこっそり就職し、さっそく会社側の不当な行為や、労働者の不平不満を個条書にして連判状をつくり、三月十七日三割賃上げの要求を提出、それを獲得した後さらに四月九日、八時間労働制・伍長の選挙制・監督の辞職などを要求した。工場主岡部三助は、臨時休業と全員解雇をもってそれに答えた。ところが、やがて工場は総同盟と妥協した方が得策だと判断し、争議団代表土井直作に会見を申し入れてきた。土井を岡部電機の職工係主任、<下請人>親方という名儀のもとに団体協約を結ぶことになった。一面では労働者側の勝利であった。しかし、同時に全職工は土井直作に誓約書をいれることになり、しかもその内容は今までの工場主に代わって労働組合=土井直作が労働者をしめつける形になるという重大な問題点を含んでいた。この「協約」に対して早速、左派や学者の末弘厳太郎らが非難の声をあげた。そこで八月には工場委員会制度にきりかえられたけれども、工場主が労働組合を利用するという根本の考えまで改められたわけではなかったとみてよい。たとえば、少しさかのぼる六月十五日に関東鉄工組合大崎第六支部の発会式が行なわれたが、それは岡部電機の工場構内で午前十時から行なわれ、その時「同支部は特殊性質を有するものなるを以って、各顧問始め組合、支部代表者も慎重なる意見を発表」したのである(『労働』一九二四年七月一日号、なお『労働』の五月一日号には四月七日岡部製作所の従業員で第五支部発会式が行なわれたとあるが、全く別の工場なのか、同じ資本系列でも別工場なのか、検討を要する)。
このあと菅原電機や本城鉄工所(下大崎三七七四)などに大崎第七支部、品川製作所に六月十四日同第八支部、北品川小関の大和製作所同第九支部、門田鉄工所・東洋製罐に同第十一支部ができた。
そして、これらの支部をつなぐ大崎支部連合会が、同年八月十七日大崎町の五反田にある第一大崎館で結成されたのである。半年近く前の三月一日付『労働』に、すでに「近き将来に大崎連合会が出現するであろう」と書かれているから、前述のように、かなり計画的だったことは間違いない。連合会の会長に福岡金次郎、主事に福永正報がおさまった。
ただここで注目すべき点は、右派の拠点づくりとはいっても、第一支部の東京衡器は九月十一日支部長以下六名の解雇、第三支部の沖電気は田町支部の闘争に呼応して立ち上がったものであり、第七部の本城鉄工所では争議が起こったのをきっかけとして組織化されたこと。第九支部大和製作の七〇人の組織に対しても八月二十一日工場閉鎖がかけられるなど、闘争のなかから、あるいは闘争と結びついたなかで組織化されていったことである。また、対立する左派から組織の機関をうばったり、第二組合で分裂して努力を拡大するといった方法ではなくて、未組織を組織化していった事実も見落してはならない。
しかし、この関東鉄工労働組合大崎支部連合会は、産業別組織と地域組織の中間に存在する極めて特殊な変則的な執行部であった。左派は大正十三年十月五日総同盟関東労働同盟会の定期大会で、この矛盾をつこうとして「組織図解および各種部門事業説明書作成の件」を提案したのであった。日本共産党の渡辺政之輔の「大崎支部連合会組織に関する件」は、当時の左派の組織方針であった産業別組織重視、地域組織軽視を端的に示すものであった。それともっともするどく対立したのが、この大崎支部連合だったのである。
その年の十一月大崎労働会館に関東労働同盟会の青年組合員たちが集まって、前線同志会という組織を結成した。細谷松太はじめ大崎支部連合会所属の労働者が中心で約三〇〇人の会員だった。右派の闘将徳永正報が委員長で采配を振った。その会歌は、左派に対するにくしみをかくそうとしなかった。
奸悪の敵うちくだき
正義の道を開くべく
青年の意気かたまりて
起てる前線同志会
わが戦線をかき乱し
組合信義をふみにじる
獅子身中の虫けらを
いかでこらさでおくべきや
総同盟の左右の対立は一層抜きさしのならない衝突へと近づいていたことを物語っていた。大崎労働会館は東京鉄工組合時代に建設されたもので、大正十一年から十二年にかけて組合員らの寄付によって建設資金がまかなわれた。今や関東鉄工組合大崎支部連合会の砦になったわけである。
この左右両派の対立は、やがて総同盟そのものを分裂させるまでに拡大していった。大崎を中心とする労働組合のせめぎ合いは、日本の労働戦線全体をゆり動かす重大な内容をもっていたわけである。左右両派の対立は労働組合をどう把えるのかという根本的なイデオロギー上の対立であったが、具体的には労働組合も一たんつくられるとそれも体制内化してしまう支配階級の側の対応策とも絡んでいた。
大正十三年十二月六日、関東鉄工組合から右派は脱退し新たに東京鉄工組合をつくった。大崎支部連合も、その後の変動のなかで、大崎第三支部=東洋電業・同第九支部竹内電機製作・同第十一支部高砂工業などが新たに傘下に入っていった。