南部合同労働組合

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関東鉄工大崎支部連合とは別個に、さらにさまざまな産業や業種の労働者を、さらに広い地域にわたって組織化しようとしてつくられたのが南部合同労働組合だった。大正十三年八月三日、目黒互楽亭で正式の発会式があり、南部合同大崎第一・同大崎第二=日本染色株式会社はじめ、大井町の市川鉛筆=同大井第一支部一二〇人、大井町立会川の金剛スレート=同大井第二支部、平塚村の東洋建材=同平塚支部四〇人、そのほか、落合第一・麻布支部・品川第一とあいついで組織化されていった。組合長には中島千八、主事に植田重義が就任した。

 東洋建材工業所は関東大震災の復興需要で莫大な利潤を得て急速に大きくなったところだが、従業員を苛酷な労働条件で酷使し、少しでも不平をいえば立ちどころに馘首にしていた。あまりの仕打ちに労働者は賃金三割値上げなどの要求をだしたが、やがて事業不振だという口実のもとに全員解雇という事態に陥った。こうした無権利状態にある労働者を南部合名労働組合は、結集していったのである。たとえば、大正十四年六月二十六日平塚友愛倶楽部で東洋製菓株式会社の従業員が、南部合同労働組合品川製菓工支部を結成したが、婦人労働者が多数を占めていたこと、とくに当時の製菓工場は労働条件が非人道的であったことから、注目された。この品川製菓工支部の結成をみた品川町南品川の白煉瓦工場の労働者も、全員が総同盟に加盟し、大正十五年八月二十六日品川煉瓦工支部を結成するなど連鎖反応的に、しだいに組織の輪を拡げていったのである(大正十五年十月『労働』)。