明治の後期、すでに一部で始まっていた東京の近郊化への動きは、この時期になるとなおいっそう激しくなり、かつての大崎たんぼ一帯には多くの工場がもうけられて工場地帯となり、また品川大井の海岸部にも多数の工場や小住宅が密集する市街地へと転じた。また、国電の駅も五反田・大崎・大井町駅が明治末年から大正初年にかけて次々と開業、大正十二年には目蒲電車が開通するなど、この地域の都心への交通が至便になったこともその市街化に拍車をかけた。
このような住宅の急増、人口の急増は必然的に就学児童の急増をもたらし、小学校の増設、中学校の設置などの教育機関の整備が緊急な課題となり、郡や各町村当局も教育問題に奔走せざるをえない状態が到来してくる。
そして、大正十二年までの間に品川・大崎・大井の各町に合計七校の小学校が新設され、また、公立中学校としての第八高女、第八中学がこの時期に創設されるにいたる。また、私立学校も星商業学校の開設、東京女子歯科医専の市内からの転入などがあり、その他、勤労青少年の増加に伴う実業補習学校や、貧窮者子弟のための夜間小学校などもこの時期の創設されるのであった。