大正元年の品川町の公立小学校の生徒数をみると(第113表参照)、品川小学校の六六〇人を最少に城南・東海小学校はすでに九〇〇人を突破しており、その四年後の大正五年には城南小学校は一、五二一人と、大正元年にくらべ五割以上という驚異的の増を示し、他の二校もその増加率は著しい。そのため、各校とも二部授業や分教場を利用して対処する状態であった。
学校名 | 品川 | 城南 | 洲崎 | 東海 | 浅間台 | 三木 | 御殿山 |
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年度 | |||||||
明治四十一年 | 五七六 | 九五七 | 同 | 五九四 | ―― | ―― | ―― |
同 四十五年 | 六六二 | 九〇一 | 同 | 九九四 | ―― | ―― | ―― |
大正元年 | ―― | ―― | ―― | ||||
同 五年 | 八六二 | 一、五二一 | 同 | 一、一七七 | ―― | ―― | ―― |
同 九年 | 一、〇九八 | 一、四七〇 | 大正八年 | 一、六二八 | 九五五 | ―― | ―― |
一一〇 | |||||||
同 十年 | 一、一五九 | 一、四七三 | 不明 | 一、二〇九 | 一、二五二 | ― | ―― |
同 十一年 | 一、一八三 | 一、四一〇 | 七八 | 一、二三六 | 一、四五六 | 五七七 | ―― |
同 十五年 | 一、二四三 | 一、二七七 | ― | 一、二〇三 | 一、一六〇 | 一、二七一 | ―― |
昭和元年 | ―― | ||||||
同 四年 | 一、〇五八 | 一、三〇二 | ― | 一、二八二 | 一、二一六 | 一、三四七 | 四一六 |
その上、公立洲崎小学校が廃校寸前を続けたのちついに大正十三年に廃校、また私立荻野小学校も大正五年に廃校し、その生徒を品川・城南の二校が引き受けるなど悪条件が重なる状態であった。
この様子を大正七年の町会議案綴から取りあげてみると次のようである。
本町立小学校現在収容児童数四千二百三十七人、学級数七十五個ニ対シ、本教室五十七個ニシテ、既ニ十八教室ノ不足ナルモ、右ハ仮教室又ハ二部教授ノ方法ヲ以テ辛フジテ収容シ来レリ。然ルニ本町発展ニ伴フ人口ノ増加ト共ニ、学齢児童ノ数亦歳歳増加ヲ来タシ、来年度新就学児童亦八百以上ヲ算スルヲ得ベク、随テ同年度ニ於テ更ニ六教室ノ不足ヲ告グルニ至ル。則チ仮教室及二部教室ヲ廃スルトキハ、合計二十四教室ノ新設ヲ要スルヲ以テ、別紙設計書ノ通リ、大正八年度ニ於テ更ニ南品川ニ一校ヲ新設シ、并ニ改築ノ時期ニ達シタル現品川小学校ヲ新築シ、児童教育上遺憾ナキヲ期セントス。
この結果大正九年に浅間台小学校が開設され、品川小学校は権現山の新校舎に大正十三年に移転することになる。
浅間台小学校は浅間台の地に一、七〇〇坪を購入して大正八年九月起工式をあげ、大部分が寄付による予算一五万円の費用で建設され、翌年の大正九年九月に竣工する。しかし、九年四月から学校は開校しており、近くの荏原実科女学校の三教室を借りて、一、二年生三四二名の授業を二部授業で行ない、九月一日竣工後は東海・城南の二小学校から転入生徒五九二名を入れて、新校舎での授業を始めたのであった。
しかし、住宅増加の趨勢は町の西部、現在の西品川方面でも著しく、その地域にも一校を設ける必要を生じ、大正十年に現三木小学校の地に一五八五坪の土地を買収し、別の寄付地その他を含めて一七五三坪の敷地に学校建設が始まり、十一年十二月には東海・浅間台両校から五七七名の生徒を転入させて三木小学校が開校したのであった。