大崎町

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大崎町では主として第一次世界大戦以降、目黒川沿いの低地に市内からの工場移転を主とする新工場が急速に増加したが、その工場数は明治四十四年のわずか八工場から大正十年には実に一三一の工場数となり、その工員数も四、二八四名を数えるいたった。

 それに伴い、五反田・大崎駅が開業され、住宅の増加も著しいものがあった。これを児童数の増加数で示すと次表のようであり、この一〇年間に三倍弱という著しい増加を示したのであり、当時第一・第二日野の両校では二部授業、なかには三部授業が四年生にまでおよんでいたのであった。従ってこの時期に小学校増設が急務となり、芳水・第三日野の二小学校が急遽新設されることとなった。

 第114表 大正元年より大正10年までの大崎町の児童数
年次 男子 女子 合計
大正元年 六四七 六八四 一三三一
二年 七五二 七七一 一五二三
三年 九三二 八三三 一七六五
四年 一〇一四 九〇九 一九二二
五年 一〇九七 九八三 二〇七九
六年 一一一六 一〇四一 二一五八
七年 一二八四 一一五一 二四三五
八年 一四八三 一四四〇 二九二三
九年 一七九二 一七七一 三五六三
十年 一八五九 一八八六 三七四五

 

 その一つに、大正七年東大崎に設立された芳水小学校がある。この学校は大正初期大崎の地へ築地から移転して来た電機会社明電舎の初代社長重宗芳水氏の未亡人が校地・校舎を寄付した点で特異な創立経緯をもっており、その校名の由来もそこから生じている。これは当時、一次大戦時にあたり、また電機工業の隆盛期にあたって、明電舎の発展がいかに著しかったかを示す証しになるものであるが、この工場の発展とともに工場周辺にはその従業員の住宅が増加し、その数三〇〇世帯にも達しており、それらの家庭の児童数は少なくとも三〇〇人は下らなかったものと思われる。そこで当初、重宗家の方では、会社のそばに分教場的なものを作って寄付する意向であったのである。町当局では学校建設の資金問題で悩んでいた時期であったので、独立校一校の寄付を願い出で、それがかなえられたという結果生じたものであった。これは、貧弱な財政規模の地方自治体が、地元大企業に財政的援助をあおいだ先駆的な一例ということができよう。

 そして、校舎は明電舎のすぐ近くに求められ、建築も明電舎関係の請負業者によって進められて完成された。


第70図 創立当時の芳水小学校

 また、いっぽう上大崎方面の発展も著しく、ここに学校を新設することとなり、大正九年上大崎五一二の地に一、七三三坪を購入、十一年四月に開校したのが第三日野小学校であり、約八〇〇名の生徒が第二日野小学校から転校して授業を開始した。