(2) 当時の学校生活

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 芳水小学校  第三回卒業生のおもいで

 竹やぶが学校にかわったといわれた窪地に芳水が開校して、私は色々と思い出の多い第二日野より、四年生の冬に転校した。当時、大崎の学校はガラスなどなく、障子の窓をはさんで開閉をしておりました。新築の芳水校の窓はガラス、しかも校舎は一列の二階建で、本当に誇りをもって通学したものでした。生徒は一日野と二日野の合併でしたが、すぐ仲良しになり、たのしみに学校に通っていました。二代校長木村先生が、初めての朝礼の時、この学校を重箱にたとえて「きれいな重箱ですから、立派なボタモチを作って入れて下さい。それは皆さんが作るのです」と申されたことは今でも忘れることができません。学校が建って間もなくの頃です三木の貴船神社のお祭りに行こうと、友達の十二、三人と百反坂の上へ出ようとした時のことです。目の前に水が流れてくるではありませんか、そのうちだんだんと水かさが増して、みんなは着物を上へ上へとまくりながら歩きました。しかし水はふえるばかりで流れが強くて前へ進めません。それで到頭行くのを止めて家に戻りました。家に戻ってからよく考えたら、空には星も月も出ており、道路に水が流れる雨も降っていません。これはとみんなで気がつき大笑いいたしました。「タヌキの仕業だ。」十二人が一緒にばかされたのです。それほどタヌキがおりましたし今でもタヌキにばかされたと思いたくなります。ヘビはお友達です。ヘビをこわがっていたら、道は歩けませんでした。――芳水小学校五〇周年誌より――

 浅間台小学校  座談会

 創立の頃、青山「当時、城南学校に一年の時入りましたのですが、こちらの学校が大正九年にできまして、線路向うは、浅間台に行くということになりまして、城南学校にも執着がございましたのですが、やむをえず、浅間台に入りました。」

 森村「学校は、立派なもんだったですね。ほかはまだ杜松なんか藁葺き屋根みたいな学校だったでしたよ。そこへもってきて近代建築をやったんでしょ。」

 安田「瓦が赤くてきれいでしたね。だからね土手の上にこう見えるでしょ。遠く聳えてきれいでしたよ。浅間台は。」「箱根土地の藤田さんていう人が居ましてね。あの人は下神明あたり、あの辺に居たんですよ。立派な邸宅を作ってね。それで向うの学校へやれないで浅間台の学校までわざわざ娘さんをこの学校へ入れたんです。」

 原小学校  第二回生のおもいで

 私は大正十四年の春に卒業した。原小学校が出来て二回目の卒業生である。級は全部で四十四名だった。卒業の時の記念写真を今でも持っているが、洋服を着た子はそのうち十二人で、残りは皆カスリの着物である。当時大人といわず、子供といわずエリのついたジャケツが流行り、着物の子は、それを下に着て、エリだけ着物の外に出したもので、今にして思えばなつかしい大正末期の風俗だ。原小学校が出来るまで私は札場の大井第一小学校に通っていたが、大正十二年に原小学校が新設されたので、ここに移った。第二(今の山中校)からも大勢移ってきた。原小学校の在る処は、もとは馬鈴薯畑だった。その畑に自分達の新らしく通うようになる学校が建って行くのを毎日楽しみに見に出かけたものである。校舎がすっかり完成して、あと二、三日で開校するという日に、私はいつものように校庭で遊んでいた。そうすると校舎から少し離れた小使室から先生らしい人が、渡り廊下のようになった簀の子を踏んで、校舎の奥に消えて行くのを見かけた。『あれ先生だろうか』、私は遊び仲間にきいた。若い何となくガッチリした顔付きの人だった。学校が始まって、その人が仲山利一という先生であることを知った。学校が出来た当時は、今と違って、人家もごく少なかった。校舎の二階の窓から富士山が見えたりした。写生の時間に、よく大仏へ出かけた。〝青い眼の人形〟という童謡が流行ったのもこの頃である。学芸会で下級生の少女が声を揃えて唱うのを聴いて、(いい歌だナ)と思った。歌の文句にも旋律にも淡いペーソスがあって、多感な少年の心を揺った。その歌を唱った少女が好きになったりして困った。――原小学校三十周年誌より――

 以上、二、三当時の新設校の記念誌から抜すいして見たが、これらの学校の敷地は当時いずれも、まだ人家の少ない畑の中に建てられ、また、それが旧校に較べると学校の敷地も広く数段と近代的な建築で偉容を誇っていたこと。また転校生は以前の学校にいずれも愛着をもちつつ、新しい環境の中で友達をつくりあげていったことを物語っている。しかし、これらの新設校の周囲も数年にしてたちまち、市街地の中にふくまれてしまうのであり、すぐに増築が必要となるとともに、大正末年には二部授業をせざるをえない状態となるのである。これらの記事は、東京近郊新開地の姿を如実に映しだしてくれるものとして貴重な資料といえよう。