大正七年、当時の荏原郡の郡長井原次郎と郡視学松原一彦の企画で急きょ誕生した学校である。そのため設立資金の大部分は寄付金によってまかなわれたが基金が全部集まらぬ前からすでに学校を発足させ、五月二十日には郡役所の議事堂(今の北品川三丁目)を仮校舎として、開校した。当時の入学者は一年四六名、二年一六名の計六二名であった。
この学校には夜間に工業補習学校(二カ年)が併設された。これはこの地域に工場が増加しつつあった関係で工場主が学校設立募金の主要な対象となり、従業者に技術教育をほどこすという目的をかかげることが寄付金集めに有利であったからといわれている。その後、十月には郡役所改築のため、お台場の赤レンガ造りの精粉工場跡を教室として授業が続けられたが、その間に学校敷地が南品川宿浅間台(今の品川ろう学校の地)の八六〇坪の土地に決り、大正八年一月そこに郡役所議事堂の建物を移転して設けた校舎ができあがったので、お台場からここに移り、本館もその年の九月には完成した。大正八年四月には学則を改正し、修業年限を四年とし、定員は四〇〇名としたが、その年の入学志願者は六二名で全員が合格するという状態であった。
その後大正十年四月には実科女学校から高等女学校に組織替えが行なわれ、ついで十二年郡制が廃止されるにおよんで校名も東京府立品川女学校となり、その名は昭和二年第八高女となるまで続くのである。