府立第八中学校の創立

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大正十二年、平塚村小山の地に府立第八中学校が設立される。当時の東京府には大正九年まで府立中学が五校しかなく、東京の膨脹とともに府立中学の増設が必要となり、急遽大正十年当時の豊多摩郡新宿に府立六中が、次いで十一年城東の隅田に府立七中が、そして十二年、荏原郡に府立八中が設けられたのであった。

 校地がこの小山に決定した経緯はつまびらかにできないが、当時目蒲線の開設が目前の時であり、府当局が今後のこの地区が住宅地域の中心となることを予想して決めたものと考えられる。ところで当初、目蒲線の予定路線は現在のものより北側に通ずることになっており、それに合わせて正門を北側に設けたところが、じっさいには南側を通ることになり、現在の武蔵小山駅である当時の小山駅が裏門の直前になるという結果を生じてしまったといういきさつをもっている。

 

 小山の思い出

秋になって猟の解禁となると、鉄砲打ちがよくやって来たものだ。そんなにさびれてゐたのがこの付近であった。今から十四・五年前の事である。付近一帯全部畠で、麦や陸稲が秋には美しい黄金の波を作ってうねって居た。「案山子」が番をして、鳴子がカラカラと雀を追って居る。夕方になると夕食の煙が森の上に、紫色に立ち上って居た。農夫は、家路に就く。日が暮れると、ポツポツ灯火が見えるだけであった。斯くして夜が深けてしまうと聞えるものは、ただ虫の声。その次の日も、また次の日も、実に単調に暮れてしまった。

 学校は、僕の記憶している範囲では只一つで、袴をはかない鼻垂れ小僧が多かった。そして土地以外の者が来ると皆がじろじろと見たものだ。言葉まで凡そ田舎びて居た。大声で、べちゃべちゃしゃべってゐた者が、昨年から大東京市民になったのだからあきれる。

 未だ学校に行かなかった僕は、毎日この畠の付近や大根の洗場である小さな小池で、メダカを取ったりして遊んだ。しかし暫くして僕達のよい遊び場は皆うづめられて了った。トロッコが後から後から砂を運んで来た。何になるんだろうと思ってゐた。その内に赤土の土手が長く長く続いて行った。枕木が敷かれ始めた。電車が通るんだな、と思った時には何だか嬉しい様な気がした。

 セメントを流す為の鉄の塔が森よりも高く立てられた。グルグルと砂とセメントが混合されて上から流れ出て来た。ガーガーとその音が静かな田園の空気を引裂いた。電鉄が開通し始めたのはそれからずっと後だ。小山駅(元は武蔵小山といはなかった)といっても名ばかりで、上を高くした丈けであって改札なんて無かった。

 白い大きな建物が半分出来かけた時に、あの地震だ。倒れる様な家もなかった。罹災者がやって来る。家が建ち始める。道路が作られる。畠が段々無くなる。震災が小山を都会にした。それから十年後、家はもう飽和状態である。昔、雲雀の鳴いた所、雲雀の声はチンドン屋の雑音に敗かされてしまった。緑色から黒色に。屋上から見る事の出来るだけでも学校七つ、映画館六つ、煙突数十本。バーが出来る、デパートが出来る。一体どうなるんだ、末恐ろしい事だ。(昭和八年九月・山田毅一)――小山台高等学校五十周年史より――

 


第74図 大正末~昭和初期の小山本道略図(40周年誌より)
商店は代表的なもの(数字は開店の年)

 初代の校長には、当時青山師範学校(東京学芸大学の前身)の教頭であった岡田藤十郎が任命されたが、大正十二年にはまだ校舎が完成しないため、三木小学校の一部を借りて授業が行なわれ、翌十三年四月からじっさいに小山校舎での授業が始まったものである。

 当時すでにこの学校に集まる生徒は地元の荏原郡のみでなく、旧市内からの者も多く、また中産階級の子弟が大部分を占めており、その通学範囲もかなり広かった。

 府立八中の校風は、創立当初から昭和十二年の退官まで十数年の長きにわたって校長を勤めた岡田藤十郎氏の教育方針によるところが極めて強かったといえる。

 岡田校長は旧来の押し付け的な教育に対して、生徒個個人の素質・個性の発揮、伸張を基調とする人格教育を理想として、それをこの学校で実践したということができる。

 それは、入学試験の選技法に抽選を加味した方法をとったこと、また学校成績を考査するのに定期試験を廃止して平素の成績をもってし、またその評価を上中下の三段階を用い、学年成績を甲乙丙丁で表示する方式や、図書館が開設当初から、当時としては珍らしい自由閲覧制がとられ、生徒の人格が尊重されていたことなどに表わされているということができよう。


第75図 府立八中の完成校舎・正門より玄関を望む

     小山台教育の淵源

                (入学志望者の父兄諸君に望む)

三、相互信頼ノ情誼ノ欠乏セルコトハ公私上下ヲ通ジテ現代社会一般ノ弊風デアリマス。教育ノ仕事ハ師弟間ノ相互信頼ノ情誼ヲ根柢トシテ始メテ良成績ガ挙ルモノデアリ、普通教育ハ社会改善ノ先駆トナラネバナラヌ責任ガアルトイフ立場カラ考ヘテ、私ハ「信用第一」トイフコトヲ教育ノ根本方針ト致シマス。ソレデ私ハ教職員ハ勿論、生徒ノ一人一人ノ人格ヲ平等一様ニ尊重シ絶対ニ信用致シマス。スベテ真正面カラ督励シテ積極的ニ教育スルコトヲツトメ、裏面カラ監視シテ欠点短所ヲ補正スルコトノミニ腐心スルヤウナ消極的ノ教育ハナルベク避ケタイト思ヒマス。人ハ自己ノ能力ヲ信ジ自己ノ人格ヲ認ムルコトニ因リテノミ始メテヨク発展モシ責任ヲモ感ズルモノデアルトイフコトカラ考ヘテモ此事ハ教育上最モ重要ノコトデアルト信ジマス。

四、人間ノ本性ハ善カ悪カ又ハドチラツカズカ、言換ヘルト白カ黒カ灰色カトイフコトハ昔カラ定ツタコトノナイ問題デアリマス。シカシ人間ヲ教育スルカラニハドチラカニ定メテカカラネバ教育ノ筋目ガ立タヌト思ヒマス。ソレデ私ハ本性ハ善ナリト仮定シテ其ノ方針デ教育致シマス。人ハ完全カ不完全カ、言換ヘルト人ハ無瑕カ瑕物カトイフコトモ見方ニヨリテ何レトモ考ヘラレマス。此点ニツイテモ私ハ無瑕ト仮定シ其所ニ教育可能ノ本源ヲ認メテ教育致シマス。大切ナ玉ヲ無瑕ノママニ磨キ上ゲ、大事ナ苗ヲ無瑕ノママニ育テ上ゲルトイフ考デ教育シタイト思ヒマス。ツマリ訓練モ教授モ外部カラ何カ善キモノ完キモノヲ著ケ加ヘルノデナク人間固有ノ全善性全能性ヲ成長サセ発展サスヤウニ助力シ指導スルトイフ考デ教育シタイト思フノデアリマス。

五、大器晩成トイフコトハ意味深キ言葉デアルト思ヒマス。日本国民ガ一般ニ早熟早老ノ傾ガアリ、体力モ比較的劣等デアルコトカラ考ヘルト此ノコトハ特ニ考慮スル必要ガアルト信ジマス。一年早ク教育シテ十年早ク死ナスヨリ、一年晩ク世ニ出シテ十年長ク活動サス方ガ本人ノタメニモドレホド幸福デアリ利益デアルカ分リマセヌ。急ガバ廻レトモ申シマス。私ハ大望ヲ遠キ将来ニ置イテ急ガズ迫ラズ現在ノ一歩一歩ヲ堅実ニ進メテ行キタイト思ヒマス。アワタダシキ大急ギノ教育ハ人ノ子ヲ墓場ニ逐ヒヤルヤウナモノデアルト思ヒマス。早熟的ノ素質アル子弟ヲ持タルル父兄方ハ特ニ此ノ点ヲ考慮セラレテ最愛ノ子弟ノ前途ヲ誤ルコトナキヤウニ予メ御注意ナサルコトヲ望ミマス。以上ヲ新設第八中学ノ根本方針ト仮リニ定メ一切ノ施設ヲコノ方針ニヨリテ行フコトニ致シタイト思ヒマス。最愛ノ子弟ヲ当校ニ入学サセヤウトナサル父兄諸君ハ何卒コノ方針ヲ御認メノ上願出デラルルコトヲ切ニ希望致シマス。(都立小山台高等学校五〇周年史、三〇ページ)