実業補習学校と尋常夜学校の開設

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尋常小学校を卒業して、高等小学校に進まず、すぐに徒弟など実社会に出た者に簡単な職業に要する知識や、小学校教育の補習を行なうための実業補習学校の設置規定が明治二十六年に文部省から出されているが、この品川地域も明治後期になると工場・商店の増加、勤労者子弟の増加が著しくなったことから、その設置の必要が生まれて来、明治四十三年十一月まず大崎地区に大崎町立日野農商補習学校が、第二日野小学校に付設してもうけられた。当時の終業年限は二ヵ年であって、一ヵ年を二学期に分け、毎学年とも十月に始まり三月に終わることとし、科目は修身・国語・算術・地理・歴史・農業・商業が課せられた。後に大正九年になって商工実務学校と改称されており、その年限も普通科二年、高等科一年となり、英語・工業などが加わり、年間三学期制となり、午後六時から毎日三時間の授業が行なわれた。

 第115表 城南尋常夜学校開校以来の児童数・学級数・教員数表
年度 大正七年 同八年 同九年 同十年 同十一年 同十二年 同十三年 同十四年
児童数 前期 三八 八八 六〇 四六 七〇 五八 五九 七六
後期 三七 六八 五四 三九 五八 四六 五六 六一
前期 一〇 二九 三二 三四 二五 二五 二九 四〇
後期 一一 三三 二三 二五 二六 一四 三〇 三八
学級数
教員数
年度 昭和元年 同二年 同三年 同四年 同五年 同六年 同七年
児童数 前期 七一 六七 六一 六六 五一 五四 五八
後期 七二 六〇 五三 六二 四〇 六〇
前期 四一 二八 二二 二七 二七 三〇 三七
後期 二九 二三 一八 二六 二二 三四
学級数
教員数

 

 また、女子に対する同様の教育機関として大崎女子実業補習学校が明治四十四年に第一日野小学校に設けられ、一般女子のために一般教科の他に家事・裁縫・手芸などが行なわれたが、その主体は裁縫にあって、授業の半分がそれによってしめられていた。年限は当初二ヵ年であったが、大正十五年から普通科二ヵ年、本科二ヵ年に改められ、また昭和二年には大崎実修女学校と改称された。

 大崎と同様この種の学校は大井・品川にも大正期に入って設けられる。

 大井では大正七年鮫浜小学校および大井小学校内に鮫浜実業補習学校並びに大井実業補習学校が設けられ、品川でも大正八年に品川小学校内に品川商業補習夜学校の名で開設され、十四年に名称を商業実務学校と改称した。また、荏原郡立工業補習学校が荏原郡立実科女学校内に大正八年に設けられたが、大正十二年には東京府立品川工業補習学校と改称された。その修業年限は二ヵ年であった。

 大正期に入って、義務教育制度が確立し、小学校への就学率も非常に高くはなったが、なお依然として就学をなしえない貧窮家庭の児童も存在した。そのために、尋常小学校に夜学を置くことになり、まず品川管内の品川・城南の両校に大正七年から設置されたのが尋常夜学校の始まりである。この学校に修学するのは十二歳以上の者で、三ヵ年の修業期間で義務教育を終わらせるもので、城南夜学校では大正七年約五〇名、東海夜学校も四〇名が入学した。その後品川夜学校は大正十一年城南校に併合された。

 次いで大井町も大正十四年山中小学校に大井尋常夜学校として開設され、昭和三年には鈴ケ森小学校にも設けられ、また、大崎町では大正八年、第二日野校内に設立、荏原町では大正十五年に設けられる。

 これら夜学校は昭和に入っても継続されるが、生徒には朝鮮人子弟も多く、なかには年齢が二十歳以上の者もみられたが、向学心に燃える者も少なくなかった。毎晩三時間の授業が行なわれ、授業料は徴収せず、教科書や学用品も事情によって給与または貸与するのが普通であった。