1 概説

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 大正十二年九月一日、関東大震災の勃発は東京にとって前古未曽有の大事件であり、東京全域にわたって大きな被害を被ったのであるが、幸いにも品川・荏原の地区の被害は比較的軽徴ですむことができた。

 しかし、この大地震がこの地区のその後の変化におよぼした影響は極めて大きなものであり、この地区の土地利用、住民生活等、あらゆる面にわたって大転換をもたらす起爆剤になったといっても過言ではない。

 すなわち、大正以降、第一次世界大戦を通じて日本の資本主義の急速な発展とともに、その首都としての東京の機能上の地位がますます強大となり、多数の官庁機関・会社をはじめ、近代工業も起こった結果、多くの人々が全国から東京に集中し、旧市内地区はすでに住宅・人口ともに飽和の状態に到達していた。そこへ、大震災の到来による旧市内の壊滅は、いきおい人々をその外縁部にはき出す原動力をあたえたのである。

 そのため、旧市内に隣接していながら、従来までその都市化はわずかであり、いまだ東京の近郊農村として旧市内への蔬菜の供給を主な役目としていたこの地域は、驚くべき速さをもって、都会地へと衣装がえを果たしたのであった。

 この都市化の進展に大きな役割りを果たしたのは、この時期における私鉄電車網の整備であった。すなわち大正十二年の目蒲線、昭和初年の大井町線、池上線の開通がそれであり、また、バスの発達もそれを補った。

 この期間における人口の増加を統計で追うと、大正九年第一回国勢調査の人口一二万一〇七七人に対し、昭和五年の第三回国勢調査の時には三一万一六〇四人に達し、次いで昭和十年の第四回の時には三六万六一二五人と、この一五年間で三倍以上の増加を見せており、とくに荏原町(旧平塚村)では大正十年の一万〇四九八人であったものが、市郡併合時の昭和七年には一五万九〇五六人と、実に一五倍以上の増大を示し、全国一の増加率を示したのであった。

 しかし、都市化が大震災が起こらずとも、そのうち除々に進行するであろうという予測が住民の側にはすでにあったことは、耕地整理という名目で、将来の住宅地化をめざす区画整理が、各地ですでに大正の初期から行なわれていたことからも知ることができる。

 だが、あまりにも急激に、旧市内からの震災罹災者を主体とする市民が、この地域になだれのように押し寄せて来たため、その都市化には多くの混乱を生ずる結果となった。

 つまり、この地域に震災後ただちに居を移した人々は、震災によって家も財産も失った勤労者や商家の人々であった。かれらはともかく風雨をしのぐ家をうることだけでせいいっぱいであった。そのため狭い宅地に小さなバラック建てに近い家を作るか、農家が急造した借家や長屋に住もうという人が多く、それが私鉄線の駅を中心に無秩序に広がり、雑然とした市街地が形成されるにいたったのである。そして、また駅付近には、これら住民を相手とする商店が軒を並べ、にぎやかな商店街が形成されたのであるが、これらの商店の経営者も、地元の農家の次、三男とか罹災者、あるいは旧市内からののれん分けの分店など、その出身はまちまちであり、にわか造りの町であることに変わりはなかった。


第76図 震災後,急激な都市化とともにたてられた中延の同潤会住宅(昭和7年ごろ)

 これが武蔵小山・戸越銀座などの商店街であるが、住宅が密集していることもあって、なかなか繁昌し、活気のある喧噪とした光景は東京の新興商店街の典型として、たちまち全都にその名を知られるようになったのである。

 この急激な都市化は、町村財政の上にも大きな影響を与える結果となった。それは地方財政のひっぱくである。つまり罹災者を主とする低所得層の増加は、財政収入の割に支出の急速な増加をもたらしたからであった。

 市街地化にともなう財政支出は、まず教育面に表われた。児童の増加とともに、小学校の増設が緊急な要務となり、教育予算が大幅に増大せざるをえなかったし、また、道路の整備・清掃問題・防犯・火災予防等各種の出費の増加はいちじるしいものがあった。それに対して、歳入の増加はわずかであったのであるから、赤字財政に悩むようになるのも無理からぬことである。

 とくに荏原町では、都市化がもっとも急激であったために、それがひどく、たとえば昭和四年度の町税調定額は四六万三〇〇〇余円に対し、実収入額は二八万四〇〇〇余円であり、その割合は六割一分四厘にしかならず、また税金滞納者は一万三〇〇〇人にも達していた。

 このような財政ひっぱくが、市郡併合を押し進める大きな起動力となったのである。

 この期間において、もっともその生活に変化がみられたのは、旧来から住みついている人々で、とくに農家の人々の生活であった。

 それまで、朝早くから野良に出て、麦踏みや野菜の手入れに精を出し、夕(ゆうべ)には立会川の清流で野菜洗いをし、そして早暁大八車に満載した野菜を京橋や神田の市場へ権之助坂をあえぎ登って出荷する生活から、急速に宅地地主となり、また大家さんとして、日頃はさして用という用もなく、月末や年末になると地代や家賃を収集するだけの生活に転じたのであるから、その生活の変化は極めて大きかった。なかには転業して商業等を始める人もなくはなかったが、多くは「武士の商法」のわざわいをさけて、たんなる地主に転じた人が多かった。


第77図 野菜の洗い場(大正初期)
現在の二葉町3丁目付近

 そして、大農家の総領は、町内会・消防団などの世話役などを仕事としたり、また選挙や政治に熱を入れる人も少なくなかった。

 しかし決して農家のすべてが地主と化し、裕福な暮しができるようになったわけではない。農村当時、小作農もかなりあったし、賃労働にたよらなければ生活をたてていけない小農も数多くあったわけで、これらの人々は当然地主に転ずることはできず、職人や労働者など、都会の下層階級に自然にくみいれられていったのである。

 また人々のつきあいも、多くの都市勤労生活者や、小工場経営者を迎え入れた結果、旧来の村的なものから、都会的なものに変化せざるをえなかった。そして、この期間は村人と都会人との生活習慣や、生活態度の相違から生ずる多少の違和感を調節しながら、新興住宅地としての新しい地域社会のありかたを作り出していった時期であったということができよう。

 かくしてこの地域は、この短い期間に農村から市街地への衣がえをほぼ果たしたのであるが、その大東京という都市のなかで果たす部分的な機能は、都市勤労生活者の住いの場としての他に、工業地域とくに中小の電機・機械工場の集積地としての面を強くもっていたことも忘れてはならない。

 大正の初期からすでに大小の工場が、北品川から大崎町にかけての目黒川流域および大井町駅付近などに進出していたが、この時期になると、品川・大井の海岸部に埋立てを進めながら進出し、京浜工業地帯の中核的な地位を形成するにいたったのである。その工場の多くは大手の電機メーカーや機械メーカーおよびその部品を製作する工場によってしめられていたが、なかにはクリスマス用輸出電球のような地場産業の集積もみられ、これらの工場の集積がまた人口の急増、低所得層の増大をもたらす結果ともなった。

 いっぽう教育面での動きも、この時期はいちじるしいものがあった。人口の急増、とくに大震災による家族ぐるみの転入者の増加は小学校児童の爆発的増加をもたらし、各校は二部・三部授業を続けざるをえなかったし、学校増設が急務となった。そのため、荏原町をはじめ各地に多数の小学校が新設される。

 また、府立八中・第八高女をはじめ、いくつかの私立の女学校も新設され、中等学校の施設も充実された時期であった。

 このように実質的には大東京の一部を形成しながら、行政的には荏原郡下に含まれ、財政・教育等々多くの面で不合理な処遇をうけていたこの地域も、いよいよ東京市と合併して、名実ともに大東京の一翼となることになり、昭和七年十月一日、品川・大崎・大井町の三町は品川区に、荏原町は一町で荏原区となり、新しい時代を迎えることとなったのである。