未曽有の大震災

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大正十二年(一九二三)九月一日、この日早朝東京の空は荒れ模様であったが、午前十時ころから晴れ渡り、静かな一日を思わせた。ところが正午近い午前十一時五十八分、人々が昼の食卓につこうとしているとき、突然大地震が東京・横浜をはじめ関東一円を強襲、人びとを恐怖の底におとしいれた。

 震源地は東京の南一〇五キロ、伊豆七島の東方一五キロの海底で、深溝部の陥落とその両側、ことに北東部の隆起によって起こったといわれる。午前十一時五十八分四十五秒の発震以来、その後十二時間に人体に感じた余震一一四回、次の十二時間で八八回、次に六〇回と、三日間にわたる余震は実に一万七〇〇〇回に及んだという。

 この日の大井町の状況を大井町『大震災記念誌』はつぎのように伝えている。

  此の日町民の多くは昼餐の卓に就かんとする間際の第一震によりて建築の古きもの或は工事半ばの建造物は悉く倒壊され、煉瓦造及煉瓦塀は大半崩壊し、死傷者数十名を出し、土煙四方に揚り、助けて呉れの悲鳴随所に起り、(中略)加うるに役場前より字土佐山に至る道路は所々に大亀裂を生じ、断崖崩れ殊に土佐山は地盤の軟弱なる関係上家屋数棟倒壊し、続いて絶へ間なき余震と東京方面の大火に何れも不安と恐怖の念を生じて屋内に入る事能はず、一家挙って学校運動場社寺境内或は庭園又は空地、甚だしきに至っては波状を成したる線路内に野天生活の已むなきを見るに至りたり。


第78図 京浜間を避難する人たち

 東京府の罹災世帯は倒壊、火災を含めて、市内一五区で二九万三五四三戸で、総戸数の六四・六%に及び、その大部分は火災によるものであった。郡部の罹災戸数は三万一五九六戸で総戸数の七・九%であった。また被害人数は、死者・負傷者・行方不明者、その他を合わせて市内では一一四万三〇四九人で、総人口の五五・二%、郡部では一八万一一八五人で総人口の九・九%に及んだ。そのうち死者は市・郡合わせて六万〇四二〇名という痛ましい結果を生んだのであった。

 品川区域の被害状況については、品川町・大井町しか詳細はあきらかではないが、それはつぎの通りである。

 品川町

 家屋全壊四五戸、半潰五〇二戸、破損一、七二七戸、土蔵・石蔵の全壊一六棟、半潰一〇〇棟、破損八一棟、被害者は一、七八三人に及び、そのうち六人が圧死した。

 大井町

 家屋全壊三八戸、半潰一一五、土蔵の全壊五棟、半潰二二棟、一部破損は相当数にのぼった。死者は圧死二〇人、傷死者五人、そのほか町民で川崎・鎌倉・東京市内などで圧死・焼死したものが一四名を数えた。

 郡部での死傷者を含む、被害者が比較的少なかったのは火災がほとんどなかったことによる。

 火災は大井・平塚にはまったく起らず、わずかに大崎で、一日地震とほとんど同時に、陸軍衛生材料廠の薬品がひっくりかえって混乱し、自然発火した。そのため周辺民家二六棟に延焼したのが最も大きな火災であった。その他は品川町の三共製薬会社品川工場が激震により火災を起こして、半棟を焼いただけで鎮火した。