品川区域の各町村が地震のあとの火災からまぬがれたのは、まったく不幸中の幸いであった。そのためほとんど避難者をだすことがなかった。しかし東京市内・横浜・川崎方面で罹災した人びとが、難をのがれてこの地域に流れこんできた。
品川町役場では一日夜、役場吏員を非常招集し、青年団・在郷軍人会などの応援をえて避難所七ヵ所を設けて炊出しを開始した。大井町も一日夕方より四ヵ所の避難所を設けて、罹災者の救助にあたった。避難所の多くは小学校、寺院で、当時もっとも多数を収容したのは、東海道に面した城南小学校と鮫浜小学校であった。こうした町の準備した避難所とともに、多くの人びとは親戚・知己をたよって民家に身を寄せたものが多く、その数は一時三万人以上にのぼった。
大崎町も同様で、一日、町役場は各小学校・活動写真(映画)館・富豪の邸宅を開放して、避難民を収容したが、ここでも親戚・知己をたよるものが多く、その数は二万五〇〇〇人にのぼった。
罹災者を収容する一方で、各町村とも役場を中心に青年団・在郷軍人会・安全組合などの協力をえて、炊出しを行ない、また路傍に湯呑所を設けて握飯・清涼飲料水などを提供した。四日には品川町は吏員を茨城・埼玉・栃木の各県に派遺し、白米約四、〇〇〇俵を購入して食料の配給を行なった。六日以後は品川・大井両町役場は、避難所の罹災者以外で自活の力なきものには、一人一日約二合の玄米を配給し、その他には役場・学校で一人一日一升を限度に販売するなどした。この間政府・東京府、あるいは全国から送られた救援物資もそれぞれ分配された。
大崎・平塚では十五歳以上の者には一人一日二合、十五歳未満のものには一合の割合で配給を行なった。この間全国からの救援物資とともに、町内の工場・富豪・町民有志は物資・資金をだして罹災者の救助につとめた。
品川町が九月二日から八日までに町費で購入して炊出した米の量は四、四一八俵、九月四日以降九月末日まで政府からの配給米は一万四〇二〇俵に達した。また大井町の九月四日から十月三十日までの購入玄米高は八六六石四斗(二、一六六俵)であった。
大崎町・平塚村については警視庁『大正大震火災誌』によればほぼつぎのようである。
十月二十日までに配給した物資の総量は、大崎町役場で白米五三石二斗八升を五、三二八名に、衣類四、八〇六枚を四、八〇六名に、ほかに雑品一、三〇〇点を分配した。平塚村役場では白米三六石九斗一升二合を四、〇四〇名に、衣類三、〇三六枚を三、〇三六名に、ほかに雑品一、五〇〇点を配給した。十一月二日にいたってもなお平塚村内には配給を要する戸数一、〇七〇戸、三、五五六人、大崎町には三、三八七戸、一万四二八三人がおるという状態であった。
こうして救護活動は翌年一月までも続けられたのであった。