大震災後の近郊町村の急変貌

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大正十二年九月一日の関東大震災は、東京一五区と近郊町村の相貌を一変させた。それまでにすでに一五区内の人口は飽和点にたっし、人びとは近郊に流出し、隣接町村の人口は急増しつつあったが、震災はこれを決定的にした。市域の大半は焼野原となり、市内の約六〇%に近い人びとが住む家を失ひ、その大部分が近郊その他に移転した。

 その結果、近接五郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)八二ヵ町村の人口は、大正九年の一一七万七〇一八人から同十四年には二一三万三〇八五人、昭和五年には二八九万九一二六人へと急増した。僅か十年間にその人口は実に二倍半にふくれあがったのである。

 近接五郡のうちで最も激しい人口増をみせたのは荏原郡であった。他郡がそれぞれ一・五倍から二・三倍程度の人口増であったのにたいし、ひとり荏原郡は五倍強という増加率を示した。ことに荏原町の場合は、大正九年の八、五二二人が昭和五年には一躍一三万二一〇八人と、実に一五・五倍という驚異的な急増ぶりを示したのであった。そして従来すでに市街化していた品川・大崎などよりもはるかに高い人口の稠密度を示すにいたった。

 従来荏原町は東京市に近接していたにもかかわらず、道路・交通機関の施設が乏しく移住者も少なく、震災前は農村地帯として未開のままに置かれていた。この地価低廉でしかも市街地建築物法の適用されていない荏原に、震災後続々仮工場やバラックが建てられ、多くの低所得層の人びとが移り住むようになったのである。

 もちろんこうした人口の急増は、震災による市内からの移住のみからおこったものではなかった。そのもう一つの要因は、交通機関の発達にあった。あとの第四節で述べるように、大正三年(一九一四)の省線大井町駅の開設、大正一一年(一九二二)の目蒲線、昭和二年の大井町線、同三年の池上線の開通は東京市内と品川区域をいっそう密接に結びつけ、この地域の都市化をおしすすめる力となった。これに加え、郊外交通機関としての乗合自動車も急速に発達し、荏原郡だけでも京浜乗合ほか六社で、その営業キロ数は一五キロに延び、利用者も急増の傾向にあった。

 人口の急増とともに、耕地面積は縮小し、農業戸数・人口は減少の一途をたどった。荏原郡内の大正九年と昭和五年職業別人口を比較すると、農業は約1/3に、水産業は2/5に減少し、工業は若干増加、商業は一・六倍にふえているが、特徴的なのは無職業者、つまり小作料・地代・家賃・有価証券・恩給年金等によって生活する人びと、それに学生・生徒などが三六倍にも増加していることである。ここにも都市的様相がはっきりあらわれてきている。

 このような郊外町村の発達にともなって従来東京市を施行区域として制定された諸法令も、次第に荏原郡など隣接町村に適用されるようになった。市街地建築物法、街路構造令、汚物掃除法・借地借家法・中央卸売市場法などが漸次品川・大崎・大井各町に適用され、昭和にはいると荏原町にも適用された。