東京市近接五郡の町村でもっとも急激な人口増加をとげた平塚村は、いまや日本一の人口稠密な村となった。かくして村当局も町制施行を決意し、大正十四年十一月二十八日の村会において、町制施行を決定、名称も平塚町と改めることにした。
村会の決議に基づき、ただちに東京府知事にその稟請を行なった。
村を町と改むるの件
本村は従来一農村なりしが耕地整理施行と共に絶好の住宅地と認められ移住者日に月に多きを加へ、純然たる農業者は追々其数を減じ商工業者は益々多きを加う。偶々大正十二年九月一日の大震災ありてより移住者俄に激増し、殊に目黒蒲田電鉄株式会社施設の電車開通に依り大に交通の便を得、益々村勢の躍進的発展する処となり、現在戸数一万七千八百七十二戸、人口七万二千二百五十六を有し、荏原郡中第一位を占むるに至り、今や農村は一変して正に市街地を形成するに至り候。爰に商工業取引上其の他村民の便益と福利とを図らん為本村会は万場(ママ)一致を以て町制実施の議可決候に付、来る四月一日より村を町と改称致度候条御許可相成度、町村制第五条に依り別紙関係書相添へ此段禀請候也。
大正十五年二月十五日
荏原郡平塚村長 高橋勝蔵
東京府知事 平塚広義殿
(『荏原町史』)
これにたいし、東京府知事は、三月二十三日許可を出し、ここに平塚村は、四月一日より平塚町となったのであった。
ところがたまたま平塚町と同名の地が、東京府下北豊島のほか神奈川・千葉・群馬各県にもあった。このため郵便や交通・行政面でいろいろの不便を生ずるようになった。ことに郵便物は神奈川・千葉・群馬各県を一巡するなどの危険もあり、町民に不便と不安を与えた。そこで昭和二年三月二十日の平塚町会は改称を決議し、古くからゆかりがあり郡名にもなっていた荏原をとって、荏原町と呼ぶことにした。この改称は同年五月東京府より許可指令が出、七月一日から実施されたのである。