人口の急増はそのまま都市化を意味しない。都市に不可欠な社会的・文化的諸施設は市内一五区と比較したとき隣接町村のそれはきわめて貧弱であったといわなければならない。市と郡部のこの面での格差は震災復旧事業が進むにしたがっていよいよ拡がりつつあった。
第一に教育についてみると、さきにも述べたように人口の急増は当然就学児童の増加をもたらす。そのため各町は急ぎ小学校の新設・増築をはかり、これらの児童を収容しようとしたが、その収容能力はおよばず、教育上悪影響のあることを知りながらも、二部授業を行なわざるをえなかった。第122表が明らかにしているように、震災後各町とも学校を増設、ことに荏原町は七校も増設したが、昭和六年にいたってなお大崎・大井で各一校、荏原では七校が二部授業を続けざるをえなかった。
地区別 | 小学校数 | 二部授業実施学校数 | 同児童数 | 震災後新築学校数 |
---|---|---|---|---|
品川町 | 6 | 0 | 0 | 1 |
大崎町 | 6 | 1 | 93 | 2 |
大井町 | 6 | 1 | 536 | 1 |
荏原町 | 10 | 9 | 3,174 | 7 |
荏原郡全体 | 79 | 37 | 29 |
その他各町とも実業補習学校・青年訓練所などで夜間の職業教育を行なっていたが、中等学校はまったくなく、五郡全体を合わせてもわずか二校という状態で、それも女学校であった。男子の中学校・工業学校・商業学校は一校もなかった。
つぎに社会事業施設についてみよう。震災後の郡部への人口流入も低所得者層ないしはカード階級といわれる要保護者が多かった。合併前において東京市内の要保護世帯は約三万にたいし、五郡の要保護世帯数はすでに四万八千世帯に達していた。それだけに郡部の社会事業は必要であったにもかかわらず、地域的にも系統的にも行政上の各種社会事業は乱雑無統制、かつ貧弱であった。町村営住宅・庶民金融機関としての質屋などきわめてわずかであった。それでもなお郡部においては品川・大崎・大井・荏原においてはこの面で努力がなされていたほうであった。昭和五・六年までに各町とも町営の職業紹介所を設立して失業者への就職斡旋を行ない、方面委員会を設置して保護世帯への救助に力を入れている。町営以外にも住宅供給・簡易宿泊・施療等が行なわれた。
汚物掃除施設についても、各町区々であって必ずしも統一的な方法がとられていない。塵芥処分では品川・荏原は業者に任せて、埋立てているのにたいし、大崎・大井の場合は町営処理場を建設して焼却する方式をとっている。糞尿処理は各町とも汲取営業者と町民の任意契約に任せ、町当局はいっさい関与しないという状態である。
伝染病予防施設も明治三十三年設立の荏原郡病院一院にすぎず、保健衛生上きわめて不完全といわなければならない状態であった。
住民の日常生活に密接な関係を有する上水道にしても、その設備はいちじるしく貧弱で、各町とも玉川水道株式会社から給水され、いまだ町営あるいは組合経営にいたっていなかった。
このように文化的・社会的施設は住民の要求に十分こたえうるものでなく、市街化によってその必要性はいよいよ痛感されるにいたっていた。しかし、さきにみたように各町の財政能力ではもはやこれらの諸施設の整備・充実は手にあまるものであった。また各町の財政能力の不均等がこれらの諸施設拡充を同時に推進させることを阻んでいた。
こうした面からも東京市との合併は不可避となりつつあったのである。